屋嶋城

屋嶋城

Last Update: December 12, 2016
Since: February 14, 2010



★2010-02 の時点★
 高松市屋島南嶺台地で古代山城の屋嶋城やしまのきの城門跡復元工事が実施されている。 古代山城(朝鮮式山城)は、663年の白村江の戦いで大敗した大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて構築した王城守護のための 最後の防衛線として築かれた。
「日本書紀」には “倭国の高安城(奈良県生駒郡平群町、大阪府八尾市)、讃岐国山田郡の屋嶋城(香川県高松市屋島)、 対馬国の金田城(長崎県対馬市美津島町黒瀬城山)を築く” とあり、白村江の戦で敗れた為に恐れ慄いた天智天皇が唐・新羅連合軍の 来攻に備えて建設させたとされる。
高松市教育委員会は、2001年に発掘調査をはじめて2002年に城門を発見、2007年から整備事業を開始した。2010年2月7日、整備事業の 進捗状況・現地説明会が行われた。

★2016-12 の時点★
 屋島は北嶺と南嶺の2つの山からできたメサ台地である。屋嶋城の遺構が確認されたのは標高 200m 付近の南嶺山上と標高 100m に位置する浦生地区である。
南嶺山上の屋嶋城城門跡遺構は、約1350年ぶりに2015年6月に大修理により往時の姿を取り戻した。城門は地形的に水が集まりやすい場所で、城門は流失してしまい門に関する遺構は 柱穴4つしか発見されなかった。柱穴の調査により柱は一辺が 30〜40cmと考えられる。 門の床面は石敷きで階段状の懸門をにつくり敵の侵入を防ぐとともに、床下には崩壊を防ぐため排水溝を設けている。




屋嶋城跡の航空写真・地図




城門遺構logo

☆2010-02 の時点☆
屋嶋城の城門遺構は標高270mの地点で、高安城たかやすのきと同じように急斜面の岩塊を利用した天然の要塞になっている。 現在整備中の範囲は南北45m、東西6mの絶壁の上で、城門・城壁は朝鮮半島の山城の特徴を備えており、渡来人との関連が考えられる。 画像は、修復途中に公開現地説明会のもの。



☆2016-12 の時点☆
屋島は古代には島で南嶺と北嶺の2つの山からなっている。位置的には備讃瀬戸の東限に位置し、畿内に抜ける海上ルートの要所で、唐・新羅の軍船を迎え撃つには重要な 場所だった。屋嶋城の城壁は山上を全長7kmに渡ってめぐらしていたと考えられ、自然の断崖絶壁を利用しており、城壁を築いたのは約1割程度の古代山城である。 城門などの遺構は南嶺のみで確認されている。また、南嶺と北嶺の間の西側にある谷間の標高100mほどの浦生(うろ)地区に50mの城壁が残っている。 『日本書紀』に《倭國高安城やまとのくにたかやすのき讃吉國山田郡屋嶋城さぬきのくにやまだのこおりやしまのき對馬國金田城つしまのくにかなたのきを築く》の記述がある。



城門構造
城門入口に段差を設けた懸門けんもん構造で、高さ2.5m以上ある。城門遺構の奥には城門を突破した敵の侵入を阻み岩盤を有効利用して、 攻撃する敵を防ぐ円弧状の甕城おうじょうがある。左右の城壁は夾築きょうちく構造で築城している。 石垣は安山岩の野面積のづらつみになっている。

想像される城門

・城壁
城門の南側は内托ないたく式の城壁であり、北側は夾築式の城壁になっている。 内托とは、斜面にもたせ掛けるような構造で城外側に石積の壁がある構造。


・甕城
敵の侵入を防ぎ敵へ攻撃をする施設。城門の内側にあり天然の岩盤を巧みに利用している。近世の城にある虎口こぐち枡形ますがた と同様のもの。







・城門
幅5.4m 奥行10mの規模で、確認されている国内の古代山城の城門では最大級の規模である。 城門北側には侵入する敵に横矢掛けができる張出した雉城ちじょうがあり、床面には雨水対策の暗渠の排水路溝を備えている。


・懸門
入口に2.5mほどの石積階段を設けて敵の侵入を阻んでいる。普段は梯子を掛けて出入りをし敵が攻めてきたときには梯子を外す。門を通る石積階段の通路の両側に柱穴が 確認されており、門扉のような建造物があったと考えられる。









古代山城logo

唐・新羅の連合軍によって滅亡した百済を救済するために援軍を送った大和朝廷は、663年に朝鮮半島西岸の白村江で大敗した。唐・新羅の侵攻に備え西日本各地に防塁や 朝鮮式山城を築いた。史書に名前のある山城には、筑前の大野城おおのじょう、肥前の基肄城きいじょう、肥後の鞠智城きくちじょう、 対馬の金田城、長門の長門城ながとのき、讃岐の屋嶋城、大和の高安城たかやすのきがある。 防備に当たる防人さきもりには関東の農民が徴用され、3年交代で任務に就き最多時は3000人が常駐した。

金田城かねたのき 長崎県対馬市
金田城は下対馬の北端部にあり、浅茅湾の奥で北に突出し、三方が海に囲まれた標高 272m の城山にある。城壁の外周は自然地形の断崖で約2.8km、城内面積は約26haである。 自然地形を巧みに利用しており、外周城壁の全てが石塁で、高さ6mを超える石垣もみられる。陸続きは南西側だけで、他は急峻な地形になっている。 山頂からは北西方向に視界が開き、韓国南岸が視野にはいる。 城門は、二ノ城戸・三ノ城戸・南門の3か所が開く。一ノ城戸の城門は確認されていないが、張り出した櫓と水門が残存している。一ノ城戸に加え、2か所の張り出しがあり、 南側の張り出しは"東南角石塁"と呼ばれている。城内の発掘調査では、5棟の掘立柱建物跡・柵列が1列・炉跡・土塁と門礎石などが見つかっている。 金田城は、天然の崖と約 3km の石垣の要塞であった。676年に新羅が朝鮮半島を統一し情勢が安定したので、実戦に使われなかった。

大野城おおののき 福岡県太宰府市・大野城市・宇美町
大野城は、大野城市・太宰府市・宇美町の3つの市町にまたがる巨大な朝鮮式山城で、白村江で唐・新羅の連合軍に大敗北したことで、唐・新羅軍の来襲があると考え、 全国的な防衛体制の一つの拠点としてこの地に古代山城を築いた。 この城は、佐賀県基山町にある基肄城とともに九州の政務をつかさどる大宰府を中心とする防衛システムの一環となっている。現在、大野城に当時の建物は 残っていないが、古代山城の姿をほうふつとさせる見所がたくさん残っている。

鬼ノ城きのじょう 岡山県総社市
吉備高原の南端にある、標高 397m の鬼城山の山頂部にある国土防衛のために築かれた古代山城(朝鮮式山城)で、神籠石式こうごいししき山城 である。 神籠石式山城とは、主に古代の九州北部に築造された遺跡で、史記に記載がなく、遺構でしか存在を確認できない山城のことを指す。この城の真相は未だ解明されていない 謎の山城である。現在も史跡の調査や整備を行っており、西門と土塁、石垣が復元されている。





【参考文献・データ】
  1. 高松市歴史資料館 『屋島ーシンボリックな大地に刻まれた歴史ー』  高松市   2014
  2. 文化庁文化財部  『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)  第一法規  2016
  3. Takamatsu City Official Web Site;    https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/4727.html
  4. Onojo City Web Site;   http://www.city.onojo.fukuoka.jp/090/010/060/030/index.html
  5. 小島憲之    『日本書紀 B』 小学館  1998
  6. 高松市埋蔵文化財センター 『古代山城 屋嶋城』 667  高松市  2016
  7. 小田 富士雄『季刊 考古学』 136号(西日本の「天智紀」山城) 雄山閣 2016
  8. 九州歴史資料館 『特別史跡 大野城跡』(大宰府史跡ガイドブック 2)  2015
  9. 都府楼編集委員会 『都府楼』 47号(大野城・基肄城 築造1350年記念) 古都大宰府保存協会  2015