西安の遺跡・史跡を訪ねて


Last Update: Dec. 18, 2009
Written by S. Miyoshi

1.はじめに

朝の陽光を浴びながらチャーターしたバスは瀬戸大橋を快走、岡山空港へ向かっていた。古都西安への旅立ちの日で、 私の想いはすでに西安城壁、大慈恩寺の大雁塔、秦兵馬俑、華清池へととんでいた。 西安へ旅するのは20年ぶりで、最近の中国のインフラ整備ぶりを聞くにつれ、その変貌ぶりを見聞したい期待に膨らんでいた。 今回の西安への旅は、さぬき市文化財保護協会長尾支部が企画・実施したもので31名の参加者があった。


2009年10月15日

2.西安への旅路

(T) 岡山空港 → 上海浦東国際空港

中国東方航空(MU528)のエアーバスA320-214機(166席)は、2基のCFM56エンジン*1を唸らせて13:30(日本標準時間) ほぼ満席で岡山空港を飛び立つと西へ機首を向け、宮島、関門海峡、平戸島上空を経て東シナ海へ出て一直線に上海へ。 天候は上々で快適な飛行をつづけて、黄浦江の外灘ワイタン*2を見ながら14:30(北京標準時間)上海浦東国際空港に着陸した。

空から黄浦江を見るスカイウォーク100から黄浦江を見る


(U)上海浦東国際空港 → 西安咸陽国際空港

中国東方航空(MU2164)のエアーバスA320-214機(166席)は、30分遅れて20:30に離陸した。外は真っ暗でなにも見えない、 国内線区間であるが飛行時間が長いせいか簡単な食事がでた。しかしトランスファーの時間を使って上海市内に出て、 レストランで出発直前に夕食を摂ったせいか機内食がすすまない。持て余した時間のせいか20年前に飛んだこのコースを回想した
 …上海虹橋空港から飛んだのは中国西北航空のソ連製Tupolev Tu-154*3で、離陸直後に空調が故障、機内は蒸し暑くなり、 慌ててCA*4嬢が白檀の扇子とビール&つまみを配ってきた。かてて加えて着陸寸前には3基装着されているエンジンのうち1基が故障で停止状態に。 揺れるやら傾くやら… 
22:50に西安咸陽かんよう国際空港に無事に着陸した。着陸10分前に西安市内の上空を通過したとき西安城壁全体のデコレーション・ライトアップが眼下に見えて、 いよいよ古都西安に着いたと気持ちが奮い立った。
今夜の宿泊は城内の鐘楼近くにある12階建ての西安凱悦飯店(Hyatt Regency Xi'an)で、空港(咸陽市)からは約43km離れているので40分以上かかった。







2009年10月16日

3.西安の遺跡・史跡巡り

西安はみんの頃までは長安と呼ばれ、関中平原の中部に位置し、北に渭水いすいが東西に流れ、南は秦嶺山脈が東西に走っている。 気候は温帯大陸性気候で、四季がはっきりしており、年平均気温は13度と、温和な気候と自然環境に恵まれた土地である。 周・秦時代から政治、経済、文化の中心となっていた。紀元前3世紀より、西周、秦、西漢、新莽、西晋、前趙、大夏、後秦、西魏、北周、隋、唐など13の王朝が都を置き、 古都として3000年以上の歴史をもつ。西安には国家指定、省指定の重要文化財遺跡は84ヶ所ある。 日本と中国は一衣帯水の隣国といわれており、唐の時代には日中両国の往来は極めて頻繁に行われ、 日本はたびたび遣唐使を長安(西安の古い呼称)に派遣した。阿倍仲麻呂は長安に54年も住み、唐の官僚にもなり宗教、文化の伝播と日中友好のために貢献した。

(T) 青龍寺

西安市の東南部の楽遊原にあり、582年に創建され元は霊感寺といった。744年に青龍寺と改称されたが、北宋の1086年以降次第に荒廃し、ついには廃墟となり消え去った。 1982年、中国科学院考古学研究所が発掘調査をして、七か所の建築遺跡があることがわかった。 この寺は唐の時代に日本との縁が深く、著名な入唐八家*5のうち、6名の僧侶がここで仏法を学んだ歴史がある。
1982年、四国4県と日本の真言宗の門徒衆が青竜寺遺跡に空海記念碑を建立した。 高さ9.5mの大理石造りで正面に"空海記念碑"の5文字が刻まれており、東側には空海の経歴が、西側には記念碑建立の意義が、北側には記念碑建設の経過がそれぞれ刻まれている。 記念碑の4隅に円形の石燈があり、これは四国4県を表している。
空海記念碑恵果・空海記念堂
また、1984年に日中の文化交流に多大の貢献をした空海とその師である恵果阿闍梨を記念して恵果空海記念堂や庭園が再現された。
近年になって、元四国霊場会会長の蓮生善隆はこの寺を四国八十八ヶ所の零番札所と名付けたので、西安市青龍寺遺址保管所が配布している 青龍寺パンフレットに第0番札所の朱印を捺してくれる… ⇒
納経書のサインもこの場所で行っている。


(U)大慈恩寺・大雁塔

大慈恩寺は唐の3代目の高宗李治が548年、亡母文徳皇后の冥福を祈るために建立した。 当時の規模はかなり大きく、資料によると部屋の数は1897間、僧侶は 300人に及んだという。 しかし、唐代末期に戦乱のため焼き払われ、現存するのは当時の十分の一に過ぎない。
大慈恩寺のシンボルタワーである大雁塔は、652年に玄奘げんじょう三蔵が天竺から持ち帰った75部1335巻の仏典を保存する為に建立された。 当初は5層の塔であったが、則天武后の時代に改造して10層になった。しかし、戦乱などで上が崩壊し、現在は7層で高さは64 mである。 塔の入口の両側に玄奘三蔵法師の功徳を表彰するために、唐の太宗と高宗が書いた「大唐三蔵聖教序」と「大唐三蔵聖教序記」の石碑が納められている。
内部は階段がらせん状に7階まで250段続いているが、各階毎に踊場的なスペースがあり高度恐怖感はない。 最上階の西窓から外を眺めると遠くシルクロードが一望できる。 塔は四角形で、柱を使わず黄土を餅米で突き固め、外側をレンガの壁で覆った分厚い構造になっている。
現在、大慈恩寺の一帯は整備されて公園化しており、南面に遠くインドを見つめている玄奘像が建てられている。

玄奘三蔵と大雁塔大雁塔の7階からシルクロードを見る

(V)陝西歴史博物館

唐代の建築様式を取り入れた中国一の博物館で、収蔵品が37万点ある。そのうち6000点が常時展示されている。 原始社会から明の時代までの長い歴史を代表する貴重な文化財がここに集められ、一堂にして中国5000年の歴史を見ることができる。 特に唐代の壁画展示が多く、数多くの唐代の壁画から34枚を厳選して公開している。これらの壁画には宮廷生活や楽隊、儀仗隊、狩猟風景などが多彩に描かれている。

陝西歴史博物館金餅(前漢時代の金貨)

(W)徳発長餃子店

1936年創業の餃子老舗店。庶民料理の餃子を立派な料理に仕立てている。 餃子の具もバラエティに富んでおり野菜・豚肉・鶏肉などあり、形はあひる・なまこ・くるみなどを模った種類が豊富にある。
徳発長餃子館いろいろな餃子
場所は鐘鼓楼広場付近にあり、鐘楼から徒歩3分。椅子席800席あり、従業員の対応言語は中国語とThank you! 程度の英語で、日本語は全く通じない。 我々が着席したテーブルの係りは、23才の可愛い杜小姐で西安外国語学院のアルバイト学生。将来は日本で勉強したいといっていた。

一般席杜小姐(徳発長餃子宴にて)

(X)鐘楼

西安市の中心にある木造建築で、600年の歴史がある。高さ36m、外観は3階であるが、中に入って見ると2階建てになっている。 建物は釘が一切使ってない。かっては毎朝市民に時を知らせていた。

鐘楼


2009年10月17日

(Y)秦始皇兵馬俑博物館

秦始皇帝陵から東へ1.5Kmの地点にある兵馬俑坑へいばようこうは世界8番目の不思議とも呼ばれている。
1974年3月に旱魃に窮した地元農民が井戸を掘り始めた。2〜3m掘ると変わった陶器の破片が見つかった。 考古学者の鑑定によって始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることがわかった。この偶然の発見によって、 地下に2000年も眠っていた兵馬俑が日の目を見た 坑は発掘順序に基づいて1号坑、2号坑、3号坑と名づけられた。1号坑は最大の大きさで長さ230m、幅62m、深さ5m、 総面積14,260u、兵馬俑の数が約6000体、2号坑は6000u、俑の数は1000体余り、3号坑は500u、俑の数は58体に過ぎず、 規模が一番小さいが、地下軍団の司令部に当たる。1号坑は現在も発掘調査が継続されている。 前衛部隊と四周に立っている警備隊に守られ、主力軍は38列に分けられて、東に向かって整然と列を組んでいる。 兵士俑の平均身長は1.8m、胴体は空洞、下半身は詰まっていて、顔の表情はそれぞれ異なり、身分によって服装も異なっており、 いずれも手に武器を持っている。
秦始皇帝像秦兵馬俑1号坑
なかには色彩が残っているものもある。馬の高さは1.5mで西域の馬に似て、 足が速いと言われている。兵馬俑の材料はこの近くの粘土を使用しており、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れて焼いている。 殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とすることから、人類文明の進化をみることができる。
今年は開館30周年紀念*6で、国家一級博物館に指定されて整備がすすんでいるが、20年前は1号坑のみで、 入口の前まで車で乗入れた。しかし今は巨大な秦始皇帝像が建ち、敷地内が公園化して全体が広くなり、 ゲートから1号坑近くまで10名乗りぐらいの電気自動車(5元)に乗る。
秦兵馬俑地下軍団銅馬車
総合陳列楼で遭った温厚そうな中国人夫妻、浙江省杭州市から長途汽車(高速バス)で兵馬俑見物に来たといっていた。

(Z)華清池

西安の中心から東へ30km、驪山が3000年前に爆発して温泉が湧き出たため、この地が温泉地となった。 歴代の皇帝は、ここを行楽の地として大掛かりな造営をした。唐の玄宗皇帝も華清宮を造り、毎年冬から春にかけて楊貴妃を伴い、 酒池肉林に明け暮れたので多くの逸話を残した。


九龍湖楊貴妃像(少陽湯)

白居易の有名な「長恨歌」の一節に

  回眸一笑百媚生‥(眸を廻らして一笑すれば百媚生じ)
  六宮粉黛無顏色‥(六宮の粉黛顏色無し)
  春寒賜浴華清池‥(春寒くして浴を賜う華清の池)
  温泉水滑洗凝脂‥(温泉水滑らかにして凝脂を洗う)

と詠んで、玄宗皇帝(56才)と絶世の美女である楊貴妃(23才)の情交の様を如実に綴っている。 現在、楊貴妃が凝脂(美しい身体)を洗っていた浴槽が発掘展示されている。 また、近代史上では西安事件(1936年12月12日未明、張学良*7が蒋介石を捕捉監禁した)の舞台にもなった。


楊貴妃が凝脂を洗った風呂蒋介石が執務、宿泊した部屋(西安事件)


([)明代の西安城墻(城壁)

唐代の旧皇城の基礎の上に、明の洪武3年(1370年)に建築された。 城壁は一周13.79kmで、頂部幅12〜14m、底部幅15〜18m、高さ12m、頂部には12m毎に楼があり全部で98楼ある。 城壁の東西南北の城門にはそれぞれ正楼、箭楼せんろう閘楼こうろうの 3重の楼があり都市の中枢部を囲んで防御している。
レンガ造りの城壁は昔の威厳を備えており重要な文化遺産で、現在中国で完全に残っている数少ない大規模な城壁で、 西の城門(安定門)は昔のシルクロードの出発点であった。
城壁上にある箭楼城壁の頂部
城壁の頂部は外側が少し低くなっており僅かに傾斜が付けてある。雨水を外へ流すためだろうか?
レンタル自転車があり、城壁の頂部を一周できる。

(\)西安碑林博物館

城壁内の南側にある孔子廟を利用しており、唐代には翰林院(国立大学のようなもの)であった。 館内は碑林展示室と石彫芸術室があり、漢、魏から明・清時代のものまでが一堂に集められている。なかでも碑林は特に有名である。 石碑の総数は3000点以上といわれている。入口には玄宗皇帝直筆の碑があり、中に65万文字に及ぶ十三経の石碑が並び、 王義之、欧陽通、慮世南、顔真卿ら書道大家の原刻碑100基も展示されている。
碑林(石台孝経亭)碑林展示室
20年前は総ての石碑を手で触ることができたが、いまは殆んどの石碑がガラスケースで覆われており、 写真を撮るにもストロボの光が反射して写せなくなっている。 今回訪れたとき偶然にも、博物館の係りの人が拓本を採っているのに出会った。作業の一部始終を見て感心するやら参考になるやらで、 非常に楽しかった。


(])唐楽宮ディナーショー

西安市の中心より南2kmの長安道にあり、食事をしながら唐の宮廷舞踊や剣舞、歴史劇などを鑑賞出来るシアターレストラン。 唐楽宮とは、唐代"五音八楽"と"歓楽殿堂"という2つの言葉からとった名前で、西安にいくつかあるこの種のレストランの中で、 ここの歌舞劇院レストラン(シアターレストラン)は最も評判が高いといわれている。
内装は唐代の装飾を施し、面積は約2000uあり、600人の客を収容することができる。 西安を訪れる各国元首や貴賓も必ず足を運ぶ場所の一つとなっているこのシアターレストランで、 我々一行は、青島ビールや紹興酒を飲みながら、美味しい山西料理を食べて、華麗で熱情があふれる唐楽宮舞踊を楽しんだ。

♪SOUND♪
SOUNDをクリックすると“小城故事”が流れます
(読み込みに多少時間がかかります)
唐代の踊り


2009年10月18日

4.上海の街と遺跡

(T) 西安咸陽国際空港 → 上海浦東国際空港

国内線にもかかわらず厳重な荷物とボディーチェックをうけて中国東方航空(MU2153)のエアーバスA320-214機(166席)乗り込んだ。 気流が悪いせいか機体が左右に揺れ、軽食を運ぶCA嬢も何回も客席に掴って機内サービスを中止していた。 外は雲も多く下界は何も見えない。来るときは夜で、帰るときは雲で、結局中国内陸部は窺がうことができなかった。 11:30上海浦東空港へ着いた。わずか3日前だが懐かしい想いがするのは、上海のガイド嬢が可愛いかったせいだろうか。

(U)空港駅 → 龍陽路駅(上海磁浮列車)

リニアモーターカーに乗った。30kmの距離を8分で終点の龍陽路駅(地下鉄2号線)に着く。 車内の内装は台湾の淡水線電車とよく似ており、シンプルデザインになっている。
期待したスピードは最高速度301km/hで山陽新幹線よりはるかに遅いし、揺れが大きく乗り心地もよくない。 後で聞くと400km/hはでるが今は出していないとのこと、どうしてだろうか…? 上海ではリニアモーターカーのことを磁浮(Maglev)と称している。

(V)豫園

面積は約20,000u。もとは四川布政使の役人であった潘允端が、父の潘恩のために造った庭園で、1559年から1577年の18年間を費やした。 完成した時には、父はすでにこの世にいなかったといわれている。
清代初頭、潘氏が衰えると荒廃したが、1760年上海の有力者たちにより再建され、豫園は南に隣接する上海城隍廟の廟園となり西園と改称された。 当時は現在の2倍の広さがあった。
1853年園内の点春楼に小刀会*8の司令部が置かれた。 1956年、西園の約半分を庭園として改修整備し現在の豫園となり、残りの部分が豫園商城となった。 1961年に一般開放され、1982年には国務院の全国重点文物保護単位となった。
豫園商城豫園庭園
豫園の装飾や様式は伝統的な上海方式であり、周辺には中華風な高層建築物が並んでおり、 観光地として豫園商城を形成しており、浅草の仲見世通りの雰囲気がある。 商城には土産物店や飲食店が軒を連ね購買意欲をそそる。物品を買うときは半値の八掛け(40%)から始め、 更に安くする値段折衝が面白く時が経つのを忘れる。豫園商城の小籠包は有名で、 豫園入口近くにある南翔饅頭店は美味しいとの評判がある。

(W)東錦江索菲特大酒店(Sofitel Jinjiang Oriental)

上海での宿泊は、浦東地区の世紀公園近くにある35階建ての5つ星ホテルで、ロケーションは地下鉄4号線の藍村路駅から徒歩5分のところにある。
私が泊まったのは33階の見晴らしの良い部屋だった。ホテルロビーは3階までが吹き抜けで、中央部分が広く取られた開放感のあるデザイン。 晴れた日なには自然光が降り注ぐ気持ちよい空間ができる。
東錦江索菲特大酒店(Sofitel)Sofitel 正面入口
私には、3〜5年前に上海で泊まった錦江飯店、西郊賓館も良かったが、繁華街である南京東路に近く宿泊料金も安い新城飯店の方がフィットする。


2009年10月19日

5.帰国への旅路

(T) 上海浦東国際空港 → 岡山空港

上海浦東国際空港09:30(北京標準時間)発の中国東方航空(MU527)のエアーバスA319-100機(120席)はめずらしく小さな航空機で、 これでも国際線かと疑いたくなる。
飛び立ってすぐに黄浦江、長江(揚子江)、崇明島、東シナ海が見えたが、あとは雲の中で何も見えない。 機内食とビールで時間を消費する。12:15(日本標準時間)岡山空港にソフトランディングした。 日本と中国の時差は1時間あり、1時間余分にかかった気分になる。岡山空港でこの時間に到着する国際線は他に無いので、 帰国審査、通関手続ともほとんど待ち時間なしで通過できた。

(U)岡山空港 → 長尾支所前

荷物を携えて空港の外へ出るとチャーターした大川観光バスが待っていた。全員31名が乗り込むと発車。 あとはこのバスがわが家の近くまで連れて行ってくれる。
2009年10月15日から4泊5日の中国の旅であったが、 全員がなんの事故も問題も無く出発した日と同じ元気な顔で帰着できたのが、なによりの幸だった。


6.おわりに

私にとって上海は3年ぶり、西安にいたっては20年ぶりで、いずれも大きく変貌を遂げている。 ダイナミックな開発、自動車の渋滞、遺跡史跡の大々的な観光地化、レストランのビール値段(20元〜30元*9)の高騰など、 どれをとっても日本の昭和40年代の行過ぎた上昇機運と同じ軌跡をみるような気分になった。
日用品の価格は日本人の生活感覚からするとリーゾナブルでも、中国人の所得水準からは異常とも思える。 以前に悪評だった外国人、台湾人と中国人の間の3重価格が無くなったことは、経済力が付いて中国の行政当局も施政に自信を持ってきたのだろうか。 今回は時間的な制約もあり、参加者の体力もあるので、廻りきれなかったところが数多くある。 個人的には、上海の外灘(Bund)、海軍陸戦隊本部、北四川路(現、四川北路)、魯迅公園、内山書店*10跡など旧・共同租界、旧・フランス租界の散策をしてみたい。


【脚注】
*1 CFM International (アメリカGE-AviationとフランスSNECMAの合弁)が開発したターボファンエンジン
*2 バンド、上海随一の観光エリアで黄浦江西岸の地域。租界時代の西洋式高層建築が建ち並んでいる。
*3 ソ連のツポレフ設計局が開発した。Lockheed L1011 TriStar のコピー機と噂されている。
*4 Cabin Attendant (客室乗務員)。
*5 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行円仁恵運円珍宗叡) 太字は青龍寺と関りのあった6家。
*6 中国では、「紀念」の字を使う。
*7 奉天軍閥の総帥・張作霖の長男。
*8 清代の秘密結社で、1853年清朝官吏の腐敗に反抗、蜂起し上海の県城を占領して、豫園に司令部を置いた。
  フランスの軍事的援助を得た清朝によって1年半あまりで鎮圧された。
*9 1元(人民幣)=13円(日本幣)
*10 内山完造が妻の美喜のために上海・北四川路で開店した書店(1924年)。日中文化人のサロンとなり、魯迅と交流をもった。


【参考資料】
・ 西安市青龍寺遺址保管所 「青龍寺遺址簡介」
・ 西安飲食 「中華老字号 徳發長」
・ 佛子工作室 「青龍寺 唐蜜祖庭」
・ 西安碑林博物館 「碑林」
・ 西安市旅游局 「中国西安旅游」
・ 大江志乃夫 『張作霖爆殺』(中公新書)
・ 本田紘一 「西安の画像集」