鄭成功の旧跡を訪ねて


Last Update: May 13, 2007

1.はじめに

日本では近松門左衛門の浄瑠璃国姓爺合戦こくせんやかっせんの主人公(和藤内わとうない)のモデルとして知られている鄭成功ていせいこう
彼は17世紀長崎県平戸に生まれた日中混血児で、明朝の復興に生涯をかけた。台湾・中国ではオランダから国土を回復したことが近世社会の風潮とあうのか、現在も民族の英雄として尊敬されている。
生誕の地から、少年期、青年期、壮年期まで鄭成功の旧跡・足跡を自分の目で見て確かめながら追ってみた。


2.旧跡を訪ねて

@生誕の地(平戸)

長崎県平戸島川内かわちで1624年父鄭芝龍ていしりゅう、母田川マツの長男として生まれた。 鄭芝龍は福建省出身の海商、田川マツは武士である田川七左衛門の娘で、二人は正式に結婚していた。 鄭芝龍は藩主松浦隆信から与えられた川内港近くの台地に約300坪の邸宅を建てていた。
臨月間じかのある日、マツは侍女と近くの千里ヶ浜で桜貝を拾っているときに急に産気づき、海岸の岩にもたれて男児を産み落とした。 現在この岩には“鄭成功児誕石”の碑が建っている。児誕石は砂岩で侵食されやすいので、防波目的で周辺に石を積み重ねて保護している。
児誕石から約1kmの距離にある小高い台地が居宅跡、そこには鄭成功が植えたといわれている樹齢 350年以上の「ナギの木」が繁っている。 この跡地からは芝龍が使った印鑑、香炉、媽祖像が出土しており、これらのものは平戸港近くの松浦史料博物館に保存されている。現在跡地の一隅には金刀比羅宮観音堂が建っており、様相が変わっている。鄭成功は幼名を福松(ふくまつ)といい、この場所で7才まで過ごした。 母のマツは福松を武士の子として育てながら、中国語、びん南語を含めた英才教育をしたと想像される。
川内から平戸港までは約6kmで、当時平戸港にはオランダ商館が立ち並び、オランダの商船や艦船で賑っていたと思われる。 オランダ商館跡、オランダ埠頭跡やオランダ井戸が史跡として残っている。福松は、この地の景色、人種や西欧文明に触れて世界観を養ったと考えられる。

鄭成功児誕石居宅跡(ナギの木がある)鄭成功廟(川内町丸山)
オランダ商館跡オランダ井戸跡オランダ埠頭跡



A南安(福建省)

福松7才のとき、父鄭芝龍に呼ばれて、一人で唐船に乗り福建省南安の鄭一族本拠地へ旅立った。当時鄭芝龍は皇帝から実力を認められて福建の都督に任命されて、晋江に安平城を築いていた。 福松はここに落ち着いて、名前も森と改名した。
南安市石井鎮には、壮大な「鄭成功記念館」が作られており、鄭成功に関する遺品が多くある。その中で「鄭森」のサインいりの五言絶句が展示してあるのを見つけた。 館員の話では真筆であり、字体は雄渾重厚で風格を備えている。書いた時期は北伐(南京攻略戦)の直前で、平戸にいる実弟の田川次郎左衛門あてに書いたものとの説明があった。
石井鎮には以前鄭成功記念館だった「居宅跡」もあり、現在は石井鄭成功記念館となっている。 

鄭成功記念館(南安市石井)鄭森の真筆鄭成功の艦船石井鄭成功記念館



B厦門・鼓浪嶼(福建省)

かっての厦門アモイ島は、20世紀後半に高集海堤を築いたことで陸続きになっている。 厦門では鄭成功の旧跡を見つけることが出来なかったが、しかし人々は道路の名前に彼への親しみを残している。 いわく「思明路」、明みんを思う意味。鄭成功が名実共に鄭一族の総帥になったのはここ厦門であった。 鄭成功が戦略上最重要視したのは鼓浪嶼で、ここは厦門島から約500mのところにあり、周囲4kmの花崗岩の島である。 この島に上陸して歩いてみると、島全体を要塞化していた痕跡が随所に見られる。
島の中央部には大きな岩がそびえており、岩(日光岩と名づけられている)の上からは360度視界がよく、大砲も備え付けられており、軍事の中枢だったことがわかる。 日光岩の下に鄭成功記念館があり、鄭成功の工夫による鎧兜(日本式をアレンジした)槍などがある。鄭成功は明朝から受けた恩義に報いるため、明復興を期して抗清復明の旗印を掲げた。 異民族の「清」に対する漢民族の誇りが感じられる。島の東側には金門島、台湾の方角を向いた大きな鄭成功塑像が建立されており、ここでも民族の英雄を強調している。

鼓浪嶼鄭成功塑像日光岩
鄭成功記念館(コロンス島)鄭成功考案の鎧兜"清"と交戦した大砲



C金門島(台湾)

厦門島を塞ぐように金門島と小金門島がある。一番近いところでは約2km。金門島の面積は小豆島ぐらいで、土質は赤鉄鉱系(Fe2O3)の粘土で真っ赤な色をしている。 鄭成功の戦闘軍団は無敵を誇る水軍が主力であった。しかし南京攻略戦では清軍に痛い敗北を喫しており、その教訓からこの金門島で陸戦隊の鍛錬をした。
次の台湾攻略を睨んでのことと考えられ、訓練兵舎跡が金城鎮にある(この場所は現在、模範街の名前で整備されている)。また、オランダ艦隊との交戦を予測して、大量の艦船建造をこの島で行った。 島に大きな樹木が無いのは建造用に切り倒したせいだと土地の人々はいっている。
木を切り倒したこととの因果関係はわからないが、この島は風が強い、風の災害よけに《風獅爺》(沖縄のシーサーの原型ともいわれている)があちこちの庭においてある。 島の守護神でもあり、名物の一つになっている。金城の街を見下ろす位置に「ろ光樓」があり、鄭成功艦隊が出航のとき使ったという礼砲が正面に置いてあった。また、近くには延平郡王祠も作られており、鄭成功が使った大砲の車輪(出土した)が飾ってあった。

模範街延平郡王祠風獅爺



D台南(台湾)

当時この地域一帯はオランダが貿易中継地、植民地として領有していた。鄭成功は南京での敗北後、台湾を本拠地にするためオランダ勢力を駆逐する戦略を練って台湾を攻めを敢行した。
オランダはプロビンシア城を政策の本丸としており、安平にゼーランディア城を配置して鉄壁の防御布陣をしいていた。地形的にプロビンシア城は安平湾の奥にあり、湾を取り囲むように島が塞いでいる。 湾への出入りは安平口(大港)と鹿耳門水道の2ヶ所があるが、鹿耳門水道は浅く小型漁船しか通れず、大型艦船の通過は大港が常識であった。オランダはゼーランディア城の砲身をすべて安平口(大港)へ向けて待ち構えていた。 鄭成功はこの台南攻略戦を成功させるため事前に綿密な調査と情報収集を行い、年2回しかない大潮を利用して鹿耳門水道へ艦隊を進めて、安平湾に押し入った。
オランダは完全に裏をかかれた。 この結果、プロビンシア城とゼーランディア城の兵站線は遮断されて、敗北へと向かった。鄭成功の圧倒的な勝利であった。現在プロビンシア城は赤嵌楼、ゼーランディア城は安平古堡と名前を変えている。 これらの城は海の傍に築城されていたが、周辺が陸地化した現在、地形が変わっていまは海を見ることができない。
赤嵌楼には鄭成功ゆかりの遺品が多数あるし、安平古堡では当時の安平口に向いた大砲が復元されている。 鄭成功が最初に上陸した鹿耳門には媽祖廟があり、「鄭成功上陸之地」の碑がある。

赤嵌楼プロビンシア城の壁プロビンシア城(復元模型)ゼーランディア城の大砲



3.終わりに

国姓爺こくせんやといわれている鄭成功は、誰の目にも没落が近い明朝をなぜか執拗に支えていた。この忠義に対して明の亡命皇帝は「朱」姓を鄭成功に与えた。
文献によると「朱成功」を名乗った期間は短く、公の場では殆ど使っていない。いまなお台湾や大陸で共に民族の英雄として称えられ、尊敬されているのは西欧列強勢力を排除したことと関係があるのだろうか。 彼の思考や行動から人間像を推測すると、中国人的な視野の広い世界観と共に、緻密な戦略、ウエットな人生観、早急さは日本人的であるといえる。
鄭成功が勢力と地位を確立した厦門では、今も知名度は抜群で、鄭成功に関するいろいろな質問をすると、すぐに好意的な回答が得られる。 この英雄は今でも人々の心の中に生きつづけているのだろう。


鄭成功の旧跡関係地図
   地図をクリックすると大きくなります 台江海域の海戦