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Last Update: Dec. 28, 2008

名  称:田村神社(式内)読  み:たむらじんじゃ祭  神:倭迹々日百襲姫命
所在地:高松市一宮町 286電  話:087-885-1541



讃岐国一宮

本殿拝殿
奥殿本殿
1710年造営の春日造り
幣殿拝殿
1877年造営の入母屋造り


主な社殿

宇都伎社
本殿は春日造りで、幣殿拝殿は
入母屋造り 1987年再建
素婆倶羅社
本殿は春日造りで、幣殿拝殿は
入母屋造り 2002年再建
一宮天満宮
幣殿拝殿は入母屋造り
2005年再建
隋神門宮島社稲荷社



史跡と伝承

 ・花泉はなのい      現在は涸れ井となっているが、百襲姫命が手を洗った所といわれている
袂井出水  ・袂井たもとい      百襲姫命がこの地に来た時、にわかに熱病に罹り渇きをうったえた時、侍女が
         この出水の水を袂に浸して飲ませたといわれている
 ・休石やすみいし    百襲姫命が休息したと伝えられる石
 ・天降あまくだり      御旅所の跡で田村大神が示顕されたという由緒のある
 ・一宮城跡いちのみやじょうあと 神社の西北に旧跡が残っている


文化財

      
       ・片添刃鉄鉾身かたぞえはてつほこみ     1口 
       ・瑞花双鳳禽獣鏡ずいかそうほうきんじゅうきょう    1面 
       ・十二支八卦文鏡    1面 
       ・素文鏡        1面 
       ・素文八花鏡残欠    1片 


田村神社縁起

和銅2年(709)に社殿が創建されたといわれ古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」と称され、人々より篤く崇敬されていた。 貞観3年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ずこの神社に祈願したといい、定水大明神といわれる所以である。 奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。 古来、讃岐は雨が少なく、溜池が作られてきたが、この神社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。

神社の縁起案内板によると

祭神
  倭迹迹日百襲姫命
  五十狭芹彦命(吉備津彦命)
  猿田彦大神
  天隠山命(高倉下命)
  天五田根命(天村雲命)

倭迹迹日百襲姫命は皇祖第七代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、また武埴安彦の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により百襲の名を負う。後五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸の陵といわれている)は大和国城上郡大市村にある。
五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。
猿田彦大神は皇孫瓊瓊杵尊降臨のとき天の八衢に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神でこの神の向かうところはいかなる禍神も恐れて避け奉ったといわれ方除神として神威まことに偉大である。
天隠山命は皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で後に御子天五田根命と共に紀伊国より当国に渡り山河をもって国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。

境内で目についたもの

艶っぽい弁財天そばくら大明神ぐち聞きわらべ
倭迹迹日百襲姫命宝船零戦のプロペラ







【参考文献・データ】
  1. 讃岐國一宮 田村神社略記パンフレット
  2. 田村神社HP  http://tamurajinja.com/

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