静御前の伝承と遺跡


Last Update: January  06,  2018
Since: December  14,  2008
Written by S. Miyoshi

1 起の章

四国八十八ヵ所霊場第87番札所"長尾寺"の境内に時代を感じさせる苔むした五輪塔のようなものがある。近づいてみると〈静御前剃髪塚〉と書かれた立札がある。更にすぐ隣の本堂には、静御前の位牌も祀られている。
静御前といえば、源平合戦のヒーロー源義経と、その伝説にまつわる悲恋の女性が頭に浮かんでくるのは、いままでに醸成された伝承概念のせいかもしれない。 長尾寺を中心に、周辺の東かがわ市・さぬき市・木田郡三木町に目を転じると、鎌倉・鶴岡八幡宮での白拍子の舞以降の"その後の静御前"とも言える遺跡が数多く見えてくる。
静御前の後日談は全国に十数か所あるが、東讃地方に点在している静御前に関する遺跡は源平屋島の合戦から続く延長線上あるとみることができる。 源義経伝説との因果関係を紐解くことで、この東讃地方が静御前の終焉の地としてクローズアップされ、最も真実味を帯びていると思える。


2 承の章

静御前の母"イソ"は、1123年 大内郡入野郷小磯浦(東かがわ市小磯705)の富農、長町庄左衛門とツタの娘として生まれた。 当時の瀬戸内海は朝鮮半島や大陸との主要な交易航路であり、国内物資の輸送ルートであった。讃岐のこの地方には小磯浦、馬篠浦、三本松浦などの港が賑わっており海上交通の要所となっていた。
大内町史(4)によると、1133年3月 12才のイソは難波(なにわ)通いの商船が濁酒・魚介類・乾物・雑穀類の積載停泊中に、その船に乗り遊んでいるうち眠りこみ、船中の人が気づいたときには船は播磨灘の沖合へ出ており、そのまま難波に着いた。 幼いイソは難波から京都にいき、内裏に出入している青柳リユに礼儀作法や舞踊を習い、また当時の博学者で諸芸万能の藤原通憲について舞楽を修めて、24才で禅師の称号を授けられた。 禅師とは袈裟・禅師・仏など白拍子の位階であり、イソは禅師号をもらって磯野禅師と称した。白拍子静彼女の舞楽は立烏帽子と細太刀を帯びた男舞であった。
 安松九逸(6)によると、彼女は後白河法皇の愛人となり、1168年に輝くばかりの女児を生んだ。女児の名は、恩師の青柳リユと相談して"静"と命名した。 高貴のご落胤として生まれた静は、成長するにしたがいますます頭脳明晰、容姿端麗に磨きがかかり11才のときには内裏で舞い、12才では白拍子と呼ばれるようになった。
 1182年 静が15才のとき天候不順で大干ばつがおこった。これを憂慮した後白河法皇は東寺の僧に祈雨修法を命じたので、大勢の僧侶が祈祷を行ったが雨は降らなかった。 そこで神泉苑の池畔にある善女龍王社の前に舞殿を造って美妓100人による雨乞祈祷の舞を催した。この雨乞舞は5人1組で20組が舞うもので、舞い終わっても雨は降らなかった。 舞い納めは1人の白拍子によるもので、静が舞った。静の舞いが終わると、たちまち黒雲が現れ3日間雨が降り続いたといわれている。静は一躍白拍子の主役になり、天性の美貌とあでやかな舞で他を圧する光彩を放っていた。 高座で観覧していた源義経は静の群を抜く容姿に魅了され、踊りのあとで静を呼んで接見した。これが義経と静の初めての出会いとされている。

神泉苑

神泉苑は、794年に当時の大内裏の南に接する地に造営された。当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園だった。神泉苑 造営当初から天皇や廷臣の宴遊の場であったとみられる。神泉苑には善女竜王が祀られており、824年に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、 空海が勝ったことから以後東寺の所管になったといわれている。(東寺と西寺は 796年に羅城門ちかくの朱雀大路を挟んで東側と西側に建造された。)
1603年 徳川家康が二条城を建造したときに神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて庭園の規模が小さくなった(地下鉄工事のとき発掘調査をして、二条城の南に神泉苑の遺跡があったことが確認された)。

雨乞踊りから数日後に、義経は後白河法皇から宮中に呼ばれ、正式に静と堀川御殿を与えられた。以後、静は(母の磯野禅師と共に)堀川御殿に住み大勢の侍女に侍られて、義経との栄耀栄華の生活が始まった。
堀川御殿では侍女の一人に琴路ことじがいた。琴路は近江国八幡の武衛門という豪商の娘で13才のときに行儀見習いに静母子のもとに奉公に来た。素直で気立ての良い娘であったため、静は妹のように磯野禅師はわが子のように可愛がった。


3 転の章

木曽義仲との確執

1180年 信濃国で挙兵した源(木曽)義仲は平維盛の10万の大軍を倶利伽羅峠の戦いで粉砕して、 破竹の勢いで京都へ攻め上った。義仲は征東大将軍となり都の治安回復を手掛けたが、自らの大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化や皇位継承に介入するなどで逆に治安を乱した。
鎌倉にいる源頼朝はこの情報を聞いて、先に都を制圧されたことにたいして大きな失望感に襲われた。苦悩と羨望が渦巻くなか、義仲の暴挙(後白河法皇と後鳥羽天皇の幽閉)や治安悪化を理由に、 後白河法皇の義仲追討の院宣もあったので、頼朝は範頼・義経に義仲討伐を命じた。源範頼は源義経とともに鎌倉御家人を率いて、宇治川や瀬田川の戦いで義仲軍を破った。更に粟津の戦いで義仲を討ちとった。

クリカラ峠の火牛義仲と巴御前


一ノ谷の戦い

鵯越倶利伽羅峠の戦いで義仲に大敗して兵力を半減した平家は、大宰府まで都落ちしていたが、 徐々に勢力を養い讃岐国屋島に内裏を置いて本拠とし、長門国彦島に平知盛を大将として拠点を置いた。 平家はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ財力を蓄えて、義仲と頼朝の源氏同士の抗争の間に体制を立て直し、数万の兵力を擁するまでに回復していた。 かつて平清盛が遷都を計画した福原(神戸市兵庫区)まで進出しており、1184年2月には福原から京都奪回の軍を起こす予定をしていた。 1月26日 後白河法皇は頼朝に平家追討と三種の神器奪還を命じる院宣を出した。 2月7日 義経は騎馬部隊70騎を率いて一ノ谷裏手の鵯越を駆け下りて奇襲をかけ、源氏を勝利に導いた。

屋島の戦い

一ノ谷の戦いで大敗した平家は、残った兵力・軍船を本拠の屋島に集結させ、再起を狙っていた。一方の鎌倉方は軍船を保有しておらず海戦は苦手だったので、1年ほど休戦状態が続いた。
一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京都に留まった。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平家を討伐したい旨の意見を奏請した。京都に留まっていた義経は後白河法皇に引き立てられ、9月には従五位下に昇り、10月には昇殿を許された。 義経はますます後白河法皇との結びつきを強めていたので、頼朝にとって危険な存在となりつつあった。
 1185年2月に頼朝は義経に屋島攻撃の命令を出した。『平家物語』によると、義経は摂津国渡辺津を出航するまえに戦奉行の梶原景時と作戦会議を開いた。その会議では逆櫓(さかろ)論争で意見が衝突した。 このことが後の頼朝への讒言となり、義経の没落につながったともいわれている。
義経の行進路 2月16日、義経は僅か5艘50騎で暴風雨をついて渡辺津を出航した。通常3日の航路を6時間ほどで阿波国勝浦に到着した。『吾妻鏡』に「丑の刻(午前2時)に船5艘で出発し、卯の刻(午前6時)勝浦浜に着く」と記されている。 そのままうけとれば4時間で到着したことになるが、これは『吾妻鏡』が出発日または到着日を1日間違え、実際には1日と4時間の航行時間だったという見方が有力になっている。 勝浦に上陸した義経に在地武士の近藤親家が30騎の兵を率いて味方についた。まず桜庭良遠の館を打ち破り、時を置かずに夜を徹して大坂峠を越え18日には引田、白鳥、丹生、長尾を経由し、 白山の東方から北へ迂回して鳥打、駒足を通り深谷へ出て前田から2月19日に屋島の対岸に到った。
屋島に到る途中、水主神社(東かがわ市水主)で義経奉納の鞍戦勝祈願して鞍を奉納した。
屋島に布陣の平家は、田口成直が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、1000騎程しか残っておらず、それも阿波国、讃岐国各地の津(港)に100騎、50騎と配しており、屋島は手薄であるとの情報を得た義経は攻めの好機と判断した。
 当時の屋島は島であったが、干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意した。義経奮戦図大軍の襲来と見せかけるため周辺の民家に火をかけて源氏の白旗を振りかざし、 銅鑼や太鼓を打ち鳴らして歓声を上げ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。海上からの攻撃のみを予想していた平家軍は狼狽して、内裏を捨てて海上へ逃げ出した。 時がたち、義経の軍が意外に少数と知った平家軍は20日朝には平教経ほかの率いる軍船が渚の源氏軍に向かって激しい矢戦攻撃を仕掛けてきた。この日は渚で一進一退、凄まじい戦闘が繰り広げられた。この猛攻で義経の身も危なくなったが、 佐藤継信が義経の盾となり身替りに討ち死にして義経を救った。
 『平家物語』の名場面"扇の的"によると、夕刻になり休戦状態のとき、平家の軍船から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発してきた。外せば源氏の名折れになると、義経は弓の手だれ那須与一を指名した。 与一は海に馬を乗り入れ、弓を構え「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空を舞い海に落ちた。 やがて、暴風のため渡辺津から遅れて出航した梶原景時が率いる鎌倉の大軍が屋島に迫ったので、平家は長門国彦島へ撤退した。

屋島古戦場跡 扇の的跡 那須与一
屋島古戦場跡扇の的跡駒立岩跡


壇ノ浦の戦い

彦島の平家水軍を撃滅するため、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘の水軍を編成した。
3月24日 攻め寄せる義経の水軍に対して、平知盛率いる平家軍が彦島から出撃して、午の刻(12時ごろ)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。このとき九州の陸地には源範頼が3万余騎で布陣して平家の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平家軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押しに押した。義経軍は干珠島、満珠島のあたりにまで追い詰められ、勢いに乗った平家軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。 不利を悟った義経は敵船の水手・梶取(漕ぎ手)を射るよう命じた。この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行った。漕ぎ手を失った平家軍は身動きが取れなくなって狼狽、 そこを義経軍が攻めかかり、武勇の坂東武者たちが敵船に乗り移って船上の白兵戦となった。
時がたち潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこの流れに乗じて平家軍を押しまくった。平家軍は壊滅状態になり勝敗は決した。敗北を悟った平家一門は次々と海中へ身を投じた。

関門海峡 壇ノ浦合戦図
壇ノ浦古戦場跡壇ノ浦の合戦図


この章では木曽義仲から始まって、源平合戦(一ノ谷・屋島・壇ノ浦)まで述べたのは、静御前の伝説を書く上で、義経の"屋島の戦い"が欠くことができず、"屋島の戦い"だけを抜き出しても義経と静の出会い、その後の堀川御殿での甘い生活、 平家討伐後におこる義経の没落(頼朝との不仲)が静に悲運をもたらした起因はなにかを探りたかったことによる。
この源平合戦のもう一つの宣旨であった三種の神器奪還は、"天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)"は壇ノ浦の戦いで海中に紛失したが、"八咫鏡(やたのかがみ)"と"八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)"は回収された。

義経追討

源平合戦に勝利した義経は京都に凱旋した。後白河法皇は大いに喜び、これを賞して義経と配下の御家人たちを任官した。これを知った頼朝は激怒し、さらに九州に残っていた梶原景時からの平家討伐の戦いにおける義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、 怒りの炎に油を注ぐ結果となった。
頼朝は、義経の不穏な動きに神経を尖らせ土佐坊昌俊を上京させて義経誅殺を命じたが、土佐坊は失敗して逆に六条河原で斬られた。
 1185年10月 義経は叔父行家の進言で後白河法皇に奏上して頼朝追討の院宣を出させた。時を移さず頼朝も後白河法皇に義経追討の院宣を出さした。元来朝廷は国内諸勢力の均衡の上に乗りかかって成り立っており、真の実力はない。 策士後白河法皇の本心は平家滅亡後ますます強大になった頼朝の力をおさえるため、義経を利用しようとの魂胆があったとおもわれる。
頼朝は第2弾として、北条時政を大将軍にして1000騎の軍勢を上京させた。頼朝が義経追討に踏み切った理由は、前記の梶原景時の報告書や大江広元、畠山重忠などの讒言もあったが @頼朝の許可なく左衛門尉督、検非違使の官爵を受け、院内昇殿を拝受した A頼朝討伐の院宣を奏上した  B平時忠の娘夕花を側室に迎えた C叔父行家と気脈を通じ、鎌倉に反旗をひるがえした D壇ノ浦の海中から建礼門院徳子(平清盛の娘、高倉天皇の中宮)を救い出し、籠絡して吉田山に住まわせ情を通じた などが考えられる。 義経は、このまま京都に居ることに身の危険を感じて、西国支配の宣旨がでたのを機会に行家は四国、義経は九州を目指した。総勢1500騎のうち静御前など500人は、大物浦(渡辺津、尼崎市)から20隻の船で九州への海路をとった。 しかし暴風雨のため難破し、船はちりぢりばらばらになったが、義経と静が乗った舟はなんとか摂津住吉ノ浜に漂着した。浜では待ち構えていた頼朝の軍勢とも戦うことになった。 義経は弁慶ら側近19人及び静を連れて追手を避け吉野山を目指した。

吉野の別れ

吉水神社

義経は鎌倉の追討を逃れ、1185年吉野の吉水院(吉水神社)を訪ねたが、女人禁制の吉水院には静御前は入ることができない。
そこで、義経は静御前を京都に返す決心をし、数人の家来をつけて山を下らせた。山を下る途中、静御前は義経から貰った財宝を家来たちに持ち逃げされ途方に暮れているところを執行僧に捕えられ、京都の北条時政の屋敷に送られた。
 『吾妻鏡』(1)によると、1186年1月29日 義経の行方が分からないので、問いただしたい事があるので、静御前を差し出すように北条時政に伝えてきた。3月1日 静御前と母の磯野禅師は鎌倉に到着し、安達新三郎の屋敷に入ったとある。

鎌倉・鶴岡八幡宮

『吾妻鏡』を引用すると、1186年3月1日 鎌倉へ召喚された静御前と磯野禅師は安達新三郎の屋敷で過ごした。3月6日 静御前は問注所の役人に義経の行方を問われ「義経は山伏の姿になり大峰に入ていった。 跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったが、僧に女人禁制と叱られたので、やむなく都へ向かった。ところが同行していた雑色達が財宝を奪って逃げてしまい、蔵王堂に迷い着いた。」とこたえた。
 3月22日 静御前は再び子細を尋ねられるも、義経の行方は知らないというだけであった。
 4月8日 頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝。舞を行うよう控えの間から静御前を廻廊に召しだし、渋っていた静を政子が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」と説得して、 金もみの立烏帽子・水干・緋の袴・細太刀・檜扇・舞衣を準備し、工藤祐経が鼓を打ち畠山重忠が銅拍子を打った。 静御前は艶やかな舞い姿を観衆の前で披露し、頼朝・政子や多くの鎌倉御家人が居並ぶ中で、
  吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき ※1
         と、吉野山で別れた義経を恋い慕う歌を堂々と唄い舞った。さらに、
  しづやしづ 賎のおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな ※2
         と、昔を想う歌も唄った。
白拍子の舞 頼朝は不機嫌になり「関東の万歳を祝すべき祭典に当たって反逆の義経を慕い、その上別れの曲を謡うこと奇怪千万なり」と激怒して「斬って捨てよ!」と不穏な状況になったが、 北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と強く頼朝を諌めて、静御前の命を助けた。
 『吾妻鏡』には、静御前の舞の場面は「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)もほとほと動きつべし」と絶賛している。

7月29日 静御前は男子を出産するが、頼朝の命で安達新三郎が由比ヶ浜に沈めた。
9月16日 静御前と磯野禅師は鎌倉を出発した。憐れんだ政子と大姫(頼朝の娘)が多くの重宝を持たせた。
10月10日 傷心のうちに静御前は母と共に京へ帰り法勝寺の一室に寂しく身を寄せた。 (義経追討の院宣が出てから堀川御所には居づらくなり、執行僧能円の厚意で法勝寺に移り住んでいた)

     ※1 本歌は『古今和歌集』の冬歌、壬生忠岑の み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづれもせぬ
     ※2 本歌は『伊勢物語』32段、在原業平の いにしへのしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな


4 結の章

きのうまで京の都で名声高たった静母子も、反逆者義経の噂が広がり鎌倉からの探索も厳 しくなって訪れる人もなくなり、移った法勝寺の一室で苦悩の多い日夜を過ごしていた。
静は鎌倉での出来事以来体調を崩し、年老いた母もひたすら故郷への郷愁を感じるようになってきた。 そこで静は母と共に1187年 母の故郷讃岐の小磯へと向かった。難波から洲本ま で船で渡り、更に小磯浦へ出帆した。

史跡静屋敷跡

磯野禅師にとって50年ぶりの懐かしの生家は、すでに両親は他界しており縁者も死に絶えていた。 軒は傾き、柱は朽ちた家で1年余り静養していたが、いっこうに静の体調は快方へ向かわない。 一念発起、磯野禅師は静と手を携えて、両親・先祖の供養と屋島の戦いで戦死した将兵の菩提を弔うため信仰への旅立ちを決心した(現在の四国遍路のようなもの)。
生家跡は現在農耕地に変貌しており、ビニールハウスによる菜園となっている。敷地とおもわれる一隅に〈静御前の母 磯野禅尼 出生の地〉の標柱が建っている。 畑の所有者長町さんによると「むかし畑の真ん中に化粧井戸があったが、いまは形を残していない。また、家の裏には古い祠があり、磯野禅師の祠といわれている」とのこと。
供養の旅に出た静母子は、志度寺、八栗寺、屋島寺、六万寺など屋島の戦いゆかりの寺々を訪ね義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの菩提を弔った。

磯野禅師の生家 小磯港 釈王寺
磯野禅師の生家小磯港長町家の菩提寺 釈王寺


長尾寺

1189年3月20日 長尾寺に到着した。この寺は739年の開基で、都の七堂伽藍のような巨刹である。 このあたりは先年屋島の戦いのとき義経が通ったところでありなにか郷愁のようなものを感じながら、静・磯野は本堂や薬師堂にうずくまり読経にふけった。
長尾寺の住職は9代宥意阿闍梨という近郷まれな高僧であった。宥意は母子の上品さとなにか哀愁のある巡礼姿に気をうばわれて、庫裡に招いて悩みを尋ねた。 事情を聞いた宥意が二人にさとしたのは「いままでの出来事を総て忘れて、いまから新しい人生の道をたどるのが最良」と諭し、更に"いろは歌※3"を示して仏教的な無常観を解説した。 母子は虚心坦懐な気持ちになり得度剃髪を懇願した。
得度して静は〔宥心尼〕、磯野禅師は〔磯野禅尼〕と名乗るようになった。 剃髪した髪は本堂の近くに葬り石を重ねた。いまも護摩堂の前に〈静御前剃髪塚〉があり、凝灰岩の五輪塔のようなものが残っている。
なお、本堂には静の位牌が安置されており、いつの時代のものか不明であるが《宥心法尼》と刻まれている。

長尾寺 剃髪塚 宥心法尼位牌
長尾寺静御前剃髪塚宥心尼の位牌


※3 いろは歌は、作者不明の七五調四句の手習い歌の一つである(空海の作は誤り)。仏教信奉者は
   無常偈の意味があると説明している。

薬師庵(静薬師)

長尾寺から南西約2.5 km鍛冶池(三木町井戸中代)の畔に無住庵があったので、ここを安住の地に定めた。 この庵に義経形見の黄金の念持仏(薬師如来)を安置して、読経三昧の安らぎの日々が続いた。
この庵は、その後何度も建て替えられて、いまは静薬師(薬師庵)と呼ばれている。
薬師庵に居住してしばらくして琴路が訪ねてきた。琴路は、静と磯野禅師が堀川御所に居住していた頃の侍女で、静と磯野禅師が鎌倉へ召喚されるときに実家へ帰されていた。 風の噂で、静母子が讃岐国小磯へ移住したのを聞き矢も盾もたまらず、跡を追っかけた。難波・福良・小磯・志度・長尾を経て薬師庵にたどり着いた。

静薬師 案内板
薬師庵薬師庵の説明


鼓渕

長尾町史(3)によると、得度して尼僧となった静の宥心尼にとって、いまは空の心になりたいと思い読経に明け暮れする毎日であったが、 義経から形見にもらった"鼓"を見るにつけ、未練が沸き起こる。おもいきって断ち切る決心をして、長尾寺から西へ300 m の小川の渕に投げ捨てた。
鼓渕 ここは後に"鼓淵"と呼ばれるようになった所で、明治の末期には子供が泳ぐことができる広さがあり、昭和の初期までは清水が湧き出る渕であった。
現在は只の用水路のように見えるが〈鼓が淵〉の由来を示す長尾町文化財保護協会の説明標識と〈静御前遺跡鼓渕〉の石碑が立っている。
捨てた鼓は"初音の鼓"といい、吉野山の"象(きざ)ノ小川"で義経と決別のとき形見として貰ったものであった。音色の優れた名器で、紫檀の胴に金銀をちりばめ、三毛狐の皮を張ったもの。 由来は1170年 東大寺の重源僧正が唐より帰朝のとき持ち帰り、後白河法皇に土産物として奉呈したもので、平清盛が太政大臣に任官のとき祝儀として法皇から下賜された。
1171年 清盛の娘(のちの建礼門院徳子)が高倉帝に女御として召されるにあたり、引出のしるしに清盛が与えたものだったが、 壇ノ浦で滅亡した平家が総ての什器類を海中に捨てたとき、波間に漂っている鼓を伊勢三郎が拾い上げて義経に渡したという経歴を持つ。

磯野禅尼の墓

1191年11月20日 磯野禅尼が長尾寺でお参りを済ませ、薬師庵へ帰る途中、井戸川(鴨部川)のほとりで老衰と寒さもため倒れ、命を落とした。 69才であった。
井戸川橋畔に磯野禅尼の墓があったが、1937年の県道改修工事のとき現在地に移転された。墓石の前に花崗岩の自然石で〈磯野禅尼之碑〉と刻まれた石碑が建っている。

磯野禅尼の墓 磯野禅尼の碑
磯野禅尼の墓磯野禅師之碑


静の墓と位牌

1192年3月14日 静は病状悪化して、琴路の膝を枕に眠るように息を引き取った。享年24才であった。
静薬師に残る戒名は《大願院壷山貞證大信女 位》となっており、裏面には〈源義経公妃静御前〉と書かれている。 なお、この庵にはもう1基白木の位牌があり、表面は《春月妙誉正光 位》で裏面は〈建久三子年 三月十四日〉となっている。
庵の隣には静、静の男児と琴路の墓がある。墓地は2006年に中代・静薬師保存会により整備されて明るい雰囲気に変貌した。
琴路は静の葬儀を終えた翌日(静がこの世を去った7日後)、花の蕾の19才で鍛冶池に身を沈めて、はかなく散った。

静墓 琴路墓 静位牌
静御前の墓琴路の墓静の位牌


願勝寺

鍛冶池畔から北西800 m のところに願勝寺があり、ここにも静の墓と位牌がある。墓石は現代風の方形で、江戸時代に造られたものといわれている。 本堂にある位牌は《帰元 釈春月妙誉 正光位》となっている。
静位牌 この寺は源氏の武将であった佐々木盛綱(のちに出家し源光坊)が、静の菩提を弔うため創建したといわれている。 かって、この寺には13世紀(1300年)に鋳造した梵鐘があり、"静御前菩提寺"の名と"鶴岡八幡の舞い姿"が浮き彫りなっていたが、太平洋戦争中の金属供出で消失してしまった。 現在の鐘楼は1947年に鋳造されたもので"静御前の舞い姿"の浮き彫りがある。一見の価値があるとおもう。
なお、墓は佐々木信胤の夫人〈お才の局〉のもので、位牌は建久3年3月14日の日付が刻まれているが、"建徳"を"建久"と書き換えたのではないかとの説もある。

源光坊創建碑 静墓 鐘
源光坊創建碑静御前の墓浮き彫り "静の舞"

§"静の舞"の画像をクリックすると大きな画像になります§



追記

"その後の静御前"とは、義経が没落した以降の期間と筆者は位置づけている。 しかし、義経との出会いから彼女の栄枯盛衰が始まるので、その当時の義経の栄光と没落した背景も書き加えた。
東かがわ市・さぬき市・三木町に展開する"その後の静御前"の伝承、資料、遺跡、位牌、遺物などを検証すると、この東讃岐の地が静御前の終焉の地として信憑性が増したと考える。


【参考文献・データ】
(1):吾妻鏡 (?)    ;  吾妻鏡本文データ  国文学研究資料館 (1992)
(2):平家物語 (?) 
(3):改訂 長尾町史 (1986)
(4):大内町史 (1985)
(5):静御前の里、三木町   三木町教育委員会 (2007)
(6):貞烈静御前  安松 九逸  静遺跡顕彰会 (1966)
(7):義経、讃岐を駆ける  津森 明  美巧社 (2005)
(8):白拍子静御前  森本 繁  新人物往来社 (2005)
(9):静  上村松園  東京国立近代美術館 (1944)