白峯寺の文化財


Last Update: July 28, 2013
Written by S. Miyoshi

白峯寺しろみねじは、香川県坂出市にある真言宗御室派の寺院で、四国八十八ヶ所霊場の第81番札所。 寺の縁起によれば、空海・円珍が開基したと伝えられており、また崇徳上皇が崩御した後に(境内に白峯陵がある)西行がその御陵を詣でた など、この地は重要な場所と考えられている。
白峯寺には建造物をはじめ、絵画・工芸品・書跡など数多くの指定文化財がある。特に参道横に建つ十三重石塔2基は、鎌倉時代の多層塔の様式を 今に伝える重要な文化財である。他に五重塔・頓証寺横の石灯籠や少し離れたところにある笠塔婆(摩尼輪塔)などもある。


白峯寺十三重石塔

  [重要文化財・建造物]

この白峰寺十三重石塔は、源頼朝が宗徳天皇の菩提のために建立したと伝えられ、東西両塔ともにその形が似ているが、 材質工法は各々異なり、東塔には弘安元年(1278)、西塔には元亨四年(1324)の刻銘があって、鎌倉中期と末期に建立されたといえる。

東塔(花崗岩)西塔(凝灰岩)

東塔は総高5.95mの花崗岩製で壇上積基壇の上に各層を積重ね、初重軸部の四方に金剛界四仏の種子を刻んだ大日如来三尊像を現した通例の ものであるが、軸部の上面に穴を穿ち納骨されていることから供養塔として建立されたと考えられる。
西塔は総高5.63mで、この地に多く産する角礫凝灰岩製で各層を積み上げる様式は東塔と同じであるが基壇は板石を組み合わせた箱型であり 基礎から七重目までは内部が空洞となり、初軸部の正面には扉をつけたと思われる穴があり他の3面には不動三尊の種子が刻まれるなど 特異な様式を持ち、頂上部には一石五輪塔を相輪として置いている。
両塔ともにその形体工法は鎌倉時代の様式を現わした貴重な石塔で香川県下の石塔中の優品である。昭和29年9月17日重要文化財に指定されて いる。初重軸部・基礎・基壇の空洞には梵字あるいは亡者の名を墨書した小石や奉賽銭あるいは銅鈴・石の仏頭などが納められており、 信仰塔と考えられる。


木造頓証寺勅額

  [重要文化財・工芸品]

頓証寺は、保元の乱(1156) に敗れ讃岐に配流された崇徳上皇が、この地で崩じたのち、その菩提を弔い霊を慰めるために、 鎌倉の初期鼓岡の御所を移したと伝えられており、朝野の尊崇が厚かった仏殿である。前面にある門は、延宝年間に高松藩主が再建したもので あるが応永21年将軍足利義持の取り次ぎ奏上で、後小松天皇の直筆扁額が奉納されてこの門に掲げられたので、勅額門と呼んでいる。
勅額(ちょくがく)とは、皇帝や天皇などが国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のことで、上野寛永寺厳有院(徳川家綱) 霊廟勅額門・上野寛永寺常憲院(徳川綱吉)霊廟勅額門・白峯寺頓證寺勅額門がある。
現在掲げられている扁額は後世の模刻で、実物は宝物館に収蔵されている。扁額は古法の額字伝によった"頓證寺"の3文字を約1pの高さに 彫り出した縦96.5p、横63pの板の周囲に、斜め外に向けて花の操形のある縁を耳字形に取付け、縦139p、横115pある大きなものである。 全面に黒漆を塗り、文字と周囲の二重枠及び縁の上面に1.5p角の金箔を散らした室町期工芸の優品で、重要文化財となっている。 ここの勅額門は、保元の乱で上皇方の将として戦った源為義・為朝父子の像が随身として安置されており、保元の昔を偲ばせている。


白峯寺五重塔

  {県指定文化財・建造物}



白峯寺客殿の裏庭にある花崗岩製の五重塔で、高さ2.15mで層塔としては小形のものである。基礎は方52cm、高さ22.5cmで、 四方に格狭間こうざまが刻まれている。初重軸部は方29.9cmで高さ34.5cmと高く、四仏の種子などの彫刻はない。
その上にやや高い上層軸部を造出した屋根を4つ重ねて、更に上に低い露盤を造出した最上部の屋根を重ねて5重とし、露盤上には、 高さ1.15cmの伏鉢・請花・九輪・請花・宝珠を一石で造った相輪をたてている。
張りのある格狭間・初重をはじめとし、各層の高い軸部・軒先が垂直に厚く豊かな反りをもち、隅軒先で強く反り上がる野蓋や上層にいくに したがって狭まる逓減などに鎌倉中期の石塔の形や手法が見られる。
この石塔は後世になってこの庭に移されたもので、もとは十三重石塔と同じように崇徳天皇廟か仏堂に奉献されたものではないかと想われて いる。
白峯寺五重塔の画像は、谷本智氏(坂出市文化財保護協会会員)の提供による








[参考] 白峯御陵への参道脇にひっそりと建っている石塔
源為朝供養塔(凝灰岩)源為義供養塔(花崗岩)

白峯寺客殿

  {県指定文化財・建造物}

白峯寺の七棟門の右に土塀に囲まれた白峯寺洞林院がある。その御成門を入った左手に正面16m、側面11mの入母屋造りの客殿がある。 内部は桁行の方向に左右三間つづきとなる典型的な客殿形式となっており、左奥には正面に床と違い棚、左に付書院がある6畳の一段高い 上段ノ間があり、その前に10畳の二ノ間、折れ曲がって床付の15畳の三ノ間、つづいて10畳の表ノ間となっている。 上段ノ間・二ノ間・三ノ間は竿縁天井・筬欄間で、各室は襖で仕切られている。この外は入側縁となり、各室に合わせて竹ノ節飾りがあり、 杉戸を入れている。上段ノ間の右は壁で区切られ、平書院の付く6畳の納戸、12畳の裏座敷が別室となっている。

御成門客殿

この客殿は、高松藩主松平頼重が崇徳天皇の霊廟頓証寺殿を再興した延宝8年(1680)に寄進したと伝えられ、上段ノ間の違い棚や付書院、 広間の竿縁天井・筬欄間などに江戸初期の特徴があり、この頃の建築と考えられている。
県下では金刀比羅宮書院に次ぐ貴重な書院建築とされており、慶応4年の崇徳天皇御神霊奉遷の儀式も、この書院で行われている。


白峯寺阿弥陀堂

  {県指定文化財・建造物}

本尊千手観音を祀る白峯寺本堂の北にある堂宇が阿弥陀堂で、土壇基石の上に正面3間、側面2間の方4.09mの宝形造りの堂宇である。
この堂宇は正面蔀戸・両側面連子窓の江戸初期の建物で、白峯寺堂宇の中では最も古く、堂内中央に阿弥陀三尊を置き、その後方の壁面に 10段の階段を作り、高さ16cmの台座付き木造阿弥陀如来小立像を1000体並べ安置している。このことから千体阿弥陀堂とも呼ばれている。
堂宇はやや幅のひらいた一重繁垂木、柱はやや細い丸柱で、頭貫・頭長押・腰貫・地長押と貫と長押を交互に用いてつなぎ、柱上に大斗肘木を 載せている。壁は縦板壁で正面中央は蔀戸、その両側と両側面連子窓がつくられている。 地長押に沿って正面と両側面の三方に切目縁をめぐらして、床下は吹透かしで、正面に5段の石段を置いてある。 頭貫の木鼻の彫刻や大斗の繰り方、柱の下部が床下まで丸く造られていることなどに、江戸時代初期の様式をよく残している。
万治4年(1661)高松藩主松平頼重がこの千体阿弥陀堂領として、阿野郡北青海村で高10石を寄進し、更に延宝8年(1680)には修理を加え 千体仏を寄進して深く信仰し、手厚く保護した。英公実録に万治4年に当寺に参詣した記事があることから、この頃に建立して供養した とも考えられている。


白峯寺石燈籠

  {県指定文化財・工芸品}

白峯頓証寺殿の拝殿左に建つ石燈籠で、花崗岩製の6角形で総高さ1.9mの頓証寺形といわれるもので、基礎、竿、中台、火袋、笠、宝珠から できている。
基礎は6角形で側面平面、その上に複弁十二葉蓮華を円形に肉彫りした反花を彫ってある。その上の円柱の竿は上・中・下帯を高く掘り出し、 引き締まった帯の間はやや張出す鎌倉期特有の形を持ち、上の間の裏面に文永4年(1267)の刻銘を不明瞭であるが読み取ることができる。 中台は下面斜に単弁十二葉蓮華を線刻し、6角の平らな側面は面ごとに2区に別け、区画ごとに格狭間を彫り、上面には火袋を受ける低い台が 掘り出している。6角形の火袋は高く大きく、正面に大きな火口、裏面に丸窓を開けてあり、各面ごとに2区に別け上区に連子、下区に 格狭間を刻んでいるが、火口の上、下は2区の無地面となっている。その上の笠も6角で、柔らかい曲線で軒に降り、垂直に立った蕨手が ついている。軒口は厚く美しい弧線で反っている。
この燈籠はもと頓証寺の正面に1基建っていたが、江戸時代に高松藩主奉納の燈籠が一対で建立されたときに、ここに移されたと考えられる。 またこの石燈籠の基壇である凝灰岩製8角の台石は各稜に束らしい形が彫られており、藤原期に奉納されていた石燈籠の基礎と考えられる。 いずれにしても、崇徳天皇信仰に基づく奉納の石燈籠として、その引き締まった姿は鎌倉時代を代表する石燈籠といえる。


白峯寺笠塔婆

  {県指定文化財・建造物}

この塔は参道が聖地(窮極位)に達したことを表す塔婆で、もとは白峯への高松参道(猪谷)、伊予参道(神谷)、丸亀参道(西寺) に建立されていたが、現在原形を保っているのはこの猪ノ谷の1基だけである。
この笠塔婆は、角礫凝灰岩で造られた総高約2mの珍しい摩尼輪塔である。基壇の上に方33cmの方柱状の塔身を立て、塔身の前面下方には 『下乗』の2字を彫り、上部の前面は厚さ12cmを削り取り、そこに直径63cmの円盤に金剛界大日如来の種子バンを刻んだ摩尼輪を付けている。 柱上には方58cm、高さ32cmの宝形造の屋根形の笠石と宝珠をのせている。塔身左側に『元応三季二月十八日』(1321)、右側には 『願主金剛佛子宗明敬白』との刻銘がある。 この塔の左横にある下乗と彫ってある石碑は、天保7年(1836)に松平頼恕が摩尼輪塔を保護する目的で鞘堂を建て、その由来を記したもので ある。
摩尼輪は仏道を修行し、突頂覚に達するまでの6位中の最後の等覚位であって、終極に達した位をあらわすものと解され、東から参拝する 人々に乗物はここで終わりであるとの意味を示す。なお、西、南方からの道にも同じような下乗の笠塔婆があった。この塔婆はその形も古く、 全国的にも珍しいものである。


木造吉祥天立像

  {県指定文化財・彫刻}



平安時代(11世紀頃)の制作と考えられている。頭部に宝冠を戴き、裳にがい襠衣を着け、右手は垂下し、左手は屈臂して掌の上に宝珠を 持ち、沓を履いている。左手先を別材(江戸時代に補修した)で矧ぎつけているが、他は8角2段の台座も含めて榧(かや)の一木造りの丸彫り 像である。像高さ44cm、台座6cmの小さな像で、面奥・体奥とも厚くなっており、面相は細かく刻まれた眼は眦をあげ、口唇を突き出し厳しく 表されており、耳は大きく立ち耳になっている。
造像年は、一木造りの堅固な造り、面奥・体奥とも厚くしており、小像ながらなかなかに重量感があることなどから平安時代中期 (10世紀末〜11世紀初期)の当地方の作と考えられている。
わが国の吉祥天信仰は、飛鳥時代の金光明経の流布とともに広まり、さらに奈良時代には金光明最勝王経に基づき、吉祥天を本尊として罪悪を 懺悔し、天下泰平・五穀豊穣を祈願する吉祥悔過会がよく知られている。
この像は、小像ながらなかなかに重量感が看取れ、香川県下の天部のなかでは最古クラスのもので、面相部の森厳な雰囲気は屋島寺(高松市)の 千手観音を彷彿させるものがあり、貴重で興味深い像といえる。








白峯寺付近の地図

【参考文献・データ】
(1)香川県文化財保護協会 「香川県の文化財」 1971
(2)溝渕和幸 「香川県の仏像と神像」 1972
(3)香川県文化財保護協会 「香川の文化財」 1986
(4)白峯寺・ 坂出市ホームページ

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