神泉苑


Last Update: Jan. 18, 2013
所在地京都市中京区御池通神泉苑町東入る
山 号ひでん山
宗 派東寺真言宗
本 尊聖観音菩薩
文化財史跡(重要文化財)・木造不動明王坐像(重要文化財)


神泉苑は、聖観音菩薩を本尊とする真言宗東寺派の寺院。境内 は国の史跡で、重要文化財の木造不動明王坐像がある。 場所は、二条城南に小さく纏って位置している。創建当時(794年)は平安京大内裏に接していた禁苑であった。
当初の敷地は二条通りから三条通りまで、南北約500m、東西約240mの広さがあり、池を中心とした大庭園であった。 延暦19年(800年)7月19日に桓武天皇が行幸したとか、延暦21年(802年)には雅宴が催されたという記録もあり、この頃から 神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となっていたと想われる。 天長元年(824年)、西寺の守敏と東寺の空海が祈雨祈願を競い、空海が偶然にも勝ったことから以後東寺の支配下に入るように なったという。貞観11年(869)には神泉苑の南端に66本の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったといわれている。
慶長8年(1603年)徳川家康が二条城を造営した際に神泉苑の敷地の大部分が城の敷地になり、著しく規模を縮小した。更に天明8年(1783年)の 天明の大火で、細々と残っていた堂塔や社殿などが焼失した。
伝承では源義経と静が出会った場といわれており、後白河法皇のもとおこなわれた雨乞い儀式で、100人の白拍子が神殿に舞を奉納したが、 99人まで雨が降らずに、最後に静が舞ったときに雨が降った。これを見た後白河法皇が "日本一の舞" と絶賛した。 この雨乞いの儀式に参列していた義経は、静の美しさが忘れられず、その夜、堀川の館に静を呼んで宴を催したとある。 これが義経と静との最初の出会いで、静が舞った処が善女龍王堂の舞殿で、義経とは池の畔で出合ったといわれている。

神泉苑周辺のGoogle Maps神泉苑 法成橋・善女龍王社

神泉苑の観覧

神泉苑
南入口
神泉苑(鳥居)
法成橋
法成橋・法成就池法成橋
龍王船
龍頭鷁首
法成橋
法成橋
神泉苑
北入口

善女龍王社


善女龍王図  古代インドのナーガ(蛇)崇拝が、仏教とともに中国に入って四神のひとつ龍信仰(青龍)と混淆して 生まれた龍神(龍王)のなかの一尊。雲を呼び雨を降らす水神(八大龍王)として祀られることが多いが、密教では、 請雨経法の修法に際して、その本尊として善女龍王を祀るという。ただ善女龍王についての造像儀軌はなく、高野大師行状図絵には "池の上に顕れた大蛇の頭の上に乗る小さな金色の蛇"として描かれている。 善女龍王像は、雲に乗って冠を戴き、中国の衣服をまとう男性の姿で描かれる国宝・善女龍王像が有名である。
善女龍王

善女龍王社
石碑
善女龍王社
正面
善女龍王社
内殿

弁天堂・矢剱大明神社


弁天堂;案内板に "神泉苑の弁天様は、安岐の宮島・京都繁昌神社の弁財天と同体で日本三体といわれており、悪縁を切り、 良縁を結び、商売繁盛の神様" また "滞りない弁舌を以て、仏を広め、寿命を守り、財宝を得させてくれる無碍融通の神" とある。 もとはインドの女神であるが、日本では弁舌、音楽、芸術の神となっている。また、福を招くとされ七福神中唯一の女神でもある。

矢剱大明神社;法成就池の東南畔にある小さな社。朱塗り鳥居の奥に朱塗りの社殿がある。 案内板がなく、何の祭神かわからないが、鎮守稲荷社ともいわれている。伝承によると、雨乞い祈願の競いに敗れた守敏が、 空海に向かって矢を放ったとき、黒衣の僧が身代わりとなってその矢を受け、空海は難を免れた。黒衣のとは、実は地蔵菩薩で、 いつしか矢取地蔵と呼ばれるようになったといわれている。

弁天堂弁天堂弁天堂
矢剱大明神社矢剱大明神社矢剱大明神社


【参考文献・データ】
  1. 神泉苑の公式ホームページ http://www.shinsenen.org/
  2. 京都 神泉苑 平八   http://www.heihachi-web.com/shinsen.html

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