Last Update: October   12, 2016
Since: September  23, 2016

所在地山形県山形市大字山寺
山 号宝珠山ほうじゅさん 阿所川院
宗 派天台宗山門派
本 尊薬師如来
文化財重要文化財 [立石寺中堂(根本中堂)・木造薬師如来坐像・立石寺三重小塔・天養元年如法経所碑
         木造慈覚大師頭部 1箇・木棺 1合(附:木造五輪塔、元和四年木札、貞享四年木札)]


立石寺は通称「山寺」と呼ばれている。貞観2年(860)、慈覚大師円仁によって創建されたといわれている。
この地を訪れた円仁は、土地所有者から砂金3,000両・麻布3,000反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、塔堂300余を建てて、この地の布教に 勤めた。開山の際には比叡山延暦寺より伝教大師最澄が灯した不滅の法灯を分火した。
鎌倉時代には僧坊大いに栄えたが、室町時代には戦火に塗れ塔堂を失い衰え、江戸時代に入って1,420石の朱印地を賜り、塔堂が再建整備された。 山上の開山堂・納経堂の近くには、入定窟にゅうじょうくつがあり、開祖慈覚大師円仁の遺骸が葬られている。
元禄2年(1689)には "奥の細道" の紀行で、松尾芭蕉がこの地を訪れ 《閑さや 岩にしみ入る 蝉の声》 の名句を残した。

立石寺の航空写真


建造物など(重要文化財)

如法堂
三重小塔(重要文化財)
納経堂・開山堂・五大堂(県文化財)
弥陀洞
せみ塚
胎内堂根本中堂(重要文化財) 仁王門

入定窟の現地調査

入定窟にゅうじょうくつは立石寺の納経堂の下にある巌窟にあり、円仁(慈覚大師)の遺骸が安置されていると伝えられている。 記録では、円仁は貞観6年(864)1月14日に比叡山慈叡房で没したとなっている。
入定窟の上には、天養元年(1144)の《如法経所碑にょほうきょうしょひ》が建ててあり、12世紀に円仁がこの地で入定したとする伝承が 書いてある。
1948年11月1日、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会により立石寺の慈覚大師入定窟が調査された。入定窟の大きさは、左右長さ4.18m、中央部高さ97cm、 奥行長さ1.16mあり、中に金棺が1個安置されていた。金棺は桧の柾板造りで、外部長さ1.83m、幅50cm、高さ27.27cmで桟蓋をもって覆ってあった。 砥粉と漆を混じたもので下塗りし、その上に黒漆を2回塗り、外部は金箔を押したものであったが、大部分は剥落していた。金棺の中に頭部木彫1個、10数片の 骨があった。
山形県文化遺産保護協会調査報告『山寺の入定窟調査について』(1950年4月)の結論によると、金棺の中には火葬人骨2体、土葬骨3体、木造の頭部1個があった。 火葬骨の第1号骨は熟年男性、第2号骨は老年男性、土葬骨の第3号骨は熟年女性、第4号骨は老年男性、第5号骨は熟年以上の男性骨と判定された。 これらのうち第5号骨のみは4肢骨だけで、橈骨(右)・大腿骨(右・左)脛骨(右)の4本あり、頭部の骨がなかった。 非火葬骨のうち最も古いのは第5号骨で、平安時代と推定された。第5号骨が慈覚大師の遺骨である可能性があるとしている。
木造頭部は欅の一木造りの彫刻で、全長が22.1cm、顔の長さ20.3cm、幅16.6cmで等身よりやや小さく作られている。制作手法は極めて洗練されており、 京都の正統な仏師によって造られたものであると推定している。
頭蓋骨がなく、木造頭部が埋葬されている理由として、864年1月14日に慈覚大師が比叡山慈叡房で入滅した時、その遺骸は取り敢えず付近の華芳 (慈覚大師廟がある場所)に一時葬られたが、その後彼の遺言を尊重した弟子達が、嘗て彼が東北地方を巡錫したときに創建した立石寺にその遺骨を移したものと 考えることが出来る。そしてその最初に遺骸を埋葬したところに頭骸骨だけを留めて置くことになったので、その代りに立石寺に移した胴体部の骨の方に 木造頭部を付け加えたものと推察される。現在残っている黒漆塗金箔押の立派な木棺は、遺骸を比叡山から運ぶ時に用いられたものであろうと推定される。


山寺立石寺の仏像

阿弥陀如来 伝教大師坐像 阿弥陀如来
木造阿弥陀如来坐像
如法堂大仏殿本尊
木造伝教大師坐像(県文化財)
宝物館
木造阿弥陀如来坐像(県文化財)
立石寺本坊本尊
大日如来 文殊菩薩 薬師如来 観音菩薩
木造大日如来坐像(市文化財)
宝物館
木造文殊菩薩坐像(市文化財)
根本中堂
木造薬師如来坐像
根本中堂本尊
木造観音菩薩立像
華蔵院本尊

境内にある珍しい物

     
平安初期の磨崖仏
安然和尚像といわれている

後生車
車輪に南無阿弥陀佛と書いてある
輪の上には大日如来などの種子
が書いてある
芭蕉像
奥の細道紀行で立石寺にきて
名句を詠んだ

あとがき

◎◆◎すべり台

 1950〜1970年まで使われていた滑り台(石段を降りずに滑り降りる)が遺物として現在も残っている。
1950年、観光ブームの世相にのって、増加する参拝客対応策として下山路用に、全長約300m、高低差約150mの滑り台を建設した。滑り台の斜面の角度が約30度 あったので加速がつき、参拝客は尻の火傷や転落負傷する事態が頻発した。この結果、安全性を考慮して1970年代の初めに廃止された。 滑り台は有料で、出発地点でムシロのような敷物と、靴を保護する靴カバーを貸していた。終点は砂場のような着地点になっていた。
1960年代に就職した会社の独身寮で、山形大学出身のY君が暇な夜話に「山寺には滑り台があり、簡単に降ることができる」と自慢していた。実物の滑り台 (廃棄遺物)を見て、摩擦熱の対策を考慮しないで建造した当事者の勇気?に感嘆した。

  
遺物の滑り台


遺物の滑り台


◎◆◎後生車

 後生車ごしょうぐるまは、おもに立石寺の岩塔婆いわとうばの付近に置かれている。 木製の柱の下から2/3の位置に車輪が付いている。輪を回すことで死者に呼びかける目的がある。 輪には「南無阿彌陀佛」、輪の上の柱には大日如来などの種子しゅじ(梵字)、輪の下には紀年銘や供養者名が書いてある。
年若くして亡くなった人の供養で、南無阿弥陀仏と唱えて輪をまわすと、その仏が早く人間に産まれてくることができるといわれている。 後生車はチベットのマニ車(摩尼車)をルーツとして日本に伝わり独自の形態に変化した。マニ車は、チベット仏教で用いられる仏具で転経器てんきょうき ともいう。




◎◆◎山寺観光協会の《昔かんばん娘のおすすめMAP》

 [門前cafe]のかんばん娘さん! 親切に山寺を説明していただきありがとう。お礼に似顔入りのMAPを掲載させていただきました。





【参考文献・データ】
  1. 小林剛『慈覚大師の木造頭部について』 1948
  2. 山形県教育委員会『山形県の文化財』   2002
  3.      『みちのくの仏像』平凡社       2012
  4. 山寺観光協会『http://www.yamaderakankou.com/pamphlet/』