Last Update: September 20, 2016
磊々峡は、宮城県仙台市太白区を流れる名取川が秋保石の大地を侵食して作った奇岩怪岩が観られる峡谷で、秋保温泉地区にある。
両岸の秋保石を浸食しながら流れる水が、急流となったり深い渕となったり、変化に富んだ峡谷の景観を醸しだしている。磊々峡の名は、1931年に夏目漱石の 門人でドイツ文学者の小宮豊隆が名付けた。
秋保温泉入口の交差点付近の覗橋から下流に650mの区間が散策道として整備されている。散策道に入ると 奇面巌、 八間巌、時雨滝、三筋滝、 猪飛巌、天斧岩など、納得できるような名前が付いている岩場や滝がある。 散策道の安全な景観の良い場所には東屋が設置されている。
磊々峡の両岸は秋保石と呼ばれる石英安山岩質凝灰角礫岩で、堅くて耐火性に富み加工が容易なため、建築用材として利用されていた。 仙台出身の土井晩翠は磊々峡を『見下ろせば 藍を湛うる 深き淵 鎮魂台を 風掠めゆく 真二つに天斧をつんざきぬ 三万年前のあけぼの』と詠んでいる。 また、仙台市教育委員会の案内板には「奥羽山系二口渓谷より発した名取川は、此処に至りて急にその川幅をせばめ、急流となり或いは流勢を減じて紺碧の 深淵となる。両岸は秋保石と呼ばれる石英安山岩質凝灰角礫岩よりなり、奇岩怪石が磊々と重なり合い奇面岩・八間岩・鳴合底・猪跳岩など の奇勝、更に雨滝・糸滝などの懸崖敷布して一層景勝を豊かにしている。昭和6年(1931)小宮豊隆氏により磊々峡と命名された。」とある。
[磊々峡の散策マップ] |
覗橋から散策道に入ると、次々に奇岩・景観が目に写り、驚嘆の連続となる。
@ 覗橋(のぞきばし)の付近
恋人の聖地 | ハート形の奇岩 | 覗橋の上から磊々峡を観る |
覗橋にある名取川の橋標識 | 秋保(畑山崇一) | 元秋保電鉄終点駅にある仙台市電 |
A 奇面巌(きめんいわ)
奇面巌の標識 | 奇面巌 | 奇面巌 |
B 八間巌(はちけんいわ)
八間巌の標識 | 八間巌 | 八間巌 |
C 時雨滝(しぐれたき)
時雨滝の標識 | 時雨滝 | 時雨滝 |
D 三筋滝(みすじたき)
三筋滝 | 三筋滝 | 三筋滝 |
E 猪飛巌(ししとびいわ)
猪飛巌の標識 | 猪飛巌 | 猪飛巌 |
F 天斧巌(てんおのいわ)
天斧巌の標識 | 天斧巌 | 天斧巌 |
秋保温泉覗橋附近の航空写真 |
秋保温泉の歴史は6世紀中頃に始まると言われている。 拾遺和歌集、大和物語などにも歌われている 名取川の上流には「名取の御湯」という霊験あらたかな温泉があったことが遠く大和地方にも知られていた。
中世戦国時代、平重盛の末喬が秋保に逃れてくる平家落人伝説が秋保郷の歴史と交錯し、 この頃誕生した秋保郷の小領主秋保氏の活躍の中に、 落人一派に随従してきた家臣の子孫が秋保温泉の湯守役を代々勤めながら、秋保温泉の湯を守ってきたという伝承がある。 現在のホテル佐勘の祖がそれで、 伊達政宗が仙台移住に際しては湯守とあわせ肝入役(付き添い)、山守役を果たす とともに秋保郷と温泉の繁栄に貢献するという記録が残っている。
藩政時代に伊達政宗の入浴場「湯小屋」の建設がはじまったと思われるが、 やがて源泉付近に宿泊所を設け入湯者から湯銭を取るようになり、 庶民にも広く親しまれる温泉として賑わいをみせるようになった。
当初、湯守の佐藤家(佐勘)だけで宿屋をしていたが、後に佐藤家の屋敷の一隅を借りて湯治客相手に商いをしていた岩沼町の源助(岩沼屋の祖)が一部屋敷を 譲りうけ旅籠屋を開設した。また、水戸の浪人惣右エ門(水戸屋の祖)も佐藤家にわらじを脱ぎのちに佐藤家の娘と縁組をし宿屋を開設した。 この頃は浴場は一ケ所て、湯治客は浴湯のあとそれぞれの宿屋に分散して宿泊し、湯治をしていた。
大正に入ると秋保温泉と長町の間に、秋保石の採掘運搬を目的とした馬車軌道が開通した。間もなく秋保石材軌道へ進展し、 秋保電気鉄道への発展した。 秋保電鉄は、戦後における湯治客の輸送に大きく相乗効果をもたらし、近代温泉郷の原型を作り上げた。
1961年、秋保電鉄は自動車輸送の発達にともない廃止となったが、秋保温泉は近代リゾートホテルの温泉郷として更なる発展をとげた。 自然環境と秋保大滝や磊々峡をはじめ周辺地域の優れた景勝地とともに、仙台市民の憩いの温泉として広く慕われている。
秋保グランドホテル | ホテル瑞鳳 | ホテル佐勘 |
【参考文献・資料】
・秋保温泉郷観光案内所『秋保温泉郷旅あるきMAP』 2015/9
・瀬古龍雄『秋保電気鉄道』 鉄道図書刊行会 1997