Last Update: December 27, 2016



香川県さぬき市の最北端にある半島。西側の鴨庄湾と東側の小田湾を区切っており、 半島の長さは南北方向に約2.5kmの細長い半島になっている。海岸線は殆どなく、 断崖の連続で砂浜は少ない。
この半島は向い側には小豆島があり、この海峡を昔から船舶の往来が頻繁にあることから見張り所や防御の砲台が築かれていた。 東側の山稜部では、白色凝灰岩(白粉石)の 石切場跡があり、古代から凝灰岩を各地に搬出していたと考えられる。京都府八幡市にある石清水八幡宮の古文書『建武回録記』に"暦応2(1339)年この八幡宮の宝殿、弊殿、 拝殿の再建にあたり、石種30種余、箇数5000箇余りの切石が使用されたが、これは前例にならって、検校職をつとめる田中殿の 所領地讃岐の国から送り込まれた…"
田中家文書によると、平安末期から南北朝、室町時代にかけて中讃岐草木の庄、牟礼の庄一帯が石清水八幡宮の荘園であったとされており、この再建用の石材が大串半島石切場 から積み出されていた可能性がある。大串半島で見学できる史跡を廻って文化財史跡と歴史を再確認した。

大串半島の航空写真・地図

長尾公民館 ⇒⇒ 警鐘台 ⇒⇒ バベ木の端 ⇒⇒ 狼煙場跡 ⇒⇒ 石切場跡 ⇒⇒
長ぞわい観音 ⇒⇒ 長者谷遺跡 ⇒⇒ 物産センター ⇒⇒ 磨崖仏 ⇒⇒ 長尾公民館

(Marked by Garmin GPS)



@新開の警鐘台A狼煙場跡B石切場跡C長ぞわい観音への崖路
D長ぞわい観音E大串埼沖灯標F海沿いの路G長者ケ谷遺跡



@新開の警鐘台護衛空母(特1TL型)"しまね丸"の通信用マストの廃物利用。戦後、新開消防屯所の警鐘台に利用された。 英空母の艦載機Spitfire による機銃掃射で被弾した痕跡が今でも数箇所残っている。
A狼煙場跡狼煙よって非常事態を知らせる場所。江戸時代に、高松藩では非常警報・海上警備・船との連絡の ため各地の岬に狼煙場を築いた。この狼煙場は直径約 5m の円形上に高さ 4m の地石を積み重ねた見事なもので、ほぼ完全に残っているのは極めて珍しく貴重なもの である。グリーンヒル大串の増築に伴い、元あった場所から北へ約 200m の現在地に移された。
B大串石切場跡白色凝灰岩の岩層で、ここの尾根上や谷の壁面には採石に使用した工具の痕跡が無数に残っている。 切り離されずに残されたままの未完成品も目につく。採石石材は谷を利用して海岸まで降ろした痕跡がある。14世紀に石清水八幡宮(京都)へ収めたこともある。
C岩礁への崖路7.2mの観音像から樹林帯を海に進むと、突然に道が無くなる。ここから先は命綱を頼りに崖を降下する 路跡がある。
D長ぞわい観音本物の"長ぞわい観音"で岩礁の上にある。船舶の航行安全のために地元の漁師が建てたといわれており、 海岸線の赤い灯台の西側にある。「ぞわい」とは海沿いの岩場で、潮が満ちたときは海に沈み、引き潮のときは顔を出すところ。
E大串埼沖灯標船舶に障害物の存在を知らせるため、又は航路の所在を示すために岩礁、浅瀬等に設置して灯光を発する。
F海沿いの路大串半島の開発で東側崖淵沿いに遊歩道が造られている。海釣りの絶好の場所になっている。
G長者ケ谷遺跡海釣公園の砂浜奥壁に礫混じりの土層がある。この土層が"長者ヶ谷遺跡"で、縄文土器や弥生土器、 塩を濃縮するときに使用したと考えられる製塩土器が露出していた。昭和49年に試掘調査が行われた。
H大串磨崖仏昭和の終り、蓮井一郎さんが長尾から毎日通って彫り上げた。彫刻には、作者の個性が色濃く表現されている。 不動明王像と如意輪観音像が背中合わせのようなスタイルで浮彫りされている。100〜200年後には、さぬき市の文化財になるのでは…。
Iバベ木のはな第2次大戦末期、日本海軍は護衛空母に改造した"しまね丸"を長浜沖に隠した。 これを発見した英空母4隻は、連日のように爆撃や機銃掃射を加えた。ウバメガシが群生しているこの場所は、眼下に"しまね丸"が座礁した場所がよく見える。

H磨崖仏(如意輪観音)Iバベ木の端