Last Update: February  20,  2018
Since: February  14,  2018



長尾寺から大窪寺への遍路道途中にある塚原地区がある。ここに真言宗の一心庵いっしんあんがあり、宿泊接待を受けられるように なっている。数年前に一心庵が焼けて、その跡に新しい一心庵・憩いの家と地区の公民館ができた。公民館の北側に石仏・石碑が6柱ある。 中ほどに楠化石台座に設置されている石碑に目に留まる。
この石碑には、《常施待 寛政四子年 小豆嶌 三月廿四日》と陰刻されている。また、近くにある波切不動堂の前にある手水鉢には、 《寛政三年 御料小豆嶌肥土山邑 万人講中 施主太田氏妻》と刻んである。
これらの石碑に刻まれていることから、この地で小豆島肥土山ひとやま村(現在の土庄とのしょう町肥土山)請中による常接待が行われていたと考えられる。また、この場所から ほど遠くないところに塚原稲荷神社がある。神社の登り口石段右側に、500m2 程の平地があり(1960年頃まで芝居小屋があった)、ここで農村歌舞伎が 開催されていたいわれている。小豆島肥土山村の講中が関わっていたと考えられる。

 


一心庵・塚原稲荷神社の航空写真・地図
(Marked by Garmin GPS)






古文書の記録が少なく、なかなか確証できないが、印誉意心法師が1764年に草創したといわれ、阿弥陀如来を本尊として祀っている。この場所は遍路道の沿道に あるので、小豆島肥土山の講中が出張して常接待を行っていたと考えられる。
手水鉢に陰刻されている1791年(寛政3年)、小豆島肥土山と太田氏妻の関連から潅漑工事と農村歌舞伎が浮かび上がってくる。灌漑工事には、肥土山村の庄屋 太田伊左衛門典徳つねのりが関与しており、太田氏妻は典徳につながる末裔と思われる。

一心庵常施待の石碑常施待の石碑
楠化石台座手水鉢(後方は波切不動堂)手水鉢




塚原稲荷神社がある塚原地区は60年ほど前まで農村歌舞伎のさかんな土地柄であり、小豆島肥土山の講中が一心庵に於いて常接待を定常化していたこととあわせて、 塚原稲荷神社境内で肥土山農村歌舞伎開催が伺えられる。周辺に住む熟年層の話では、70年ほど前には常設の芝居小屋があり賑わっていた。この芝居小屋は、 チョウ長床ながとこ)を備えた本格的な小屋であった。

* 木組の突出部で義太夫と三味線の座

農村歌舞伎跡地農村歌舞伎跡地農村歌舞伎舞台跡の説明板


塚原稲荷神社
祭神は倉稲魂命うかのみたまのみこと、境内面積は 4,567m2あり、 本殿・幣殿・拝殿・手水舎・斎館をもっている。境内神社として地神社・滝宮神社がある。
由緒によれば、1862年に長尾西村の富次郎が創建した。伏見稲荷本宮(京都市伏見)の従四位上秦宿弥忠勝の文書によると、富次郎の懇望により長尾に 稲荷神社を安鎮して小祠を営んだとある。創建当時から境内に芝居小屋をもち、特殊神事として道饗みちあえ祭(あばれみこし)が 慣行されている。

塚原稲荷神社地神社




小豆島肥土山講中による常接待が一心庵にて行われていたことは石碑の陰刻から読み取ることができる。しかし、遍路道の沿道とはいえ一心庵でなければならない のかの疑問がでてくる。
一心庵や塚原稲荷神社がある塚原地区は、江戸時代から農村歌舞伎の盛んな地域であり、特に塚原稲荷神社の境内には約60年前までは常設芝居小屋があった。 このような風土が小豆島肥土山となんらかの接点があったと考えられる。また、塚原稲荷神社境内では逆接待が行われたといわれている。 小豆島からの交通運搬手段として鴨部川の水上交通が利用された。現在の大石地区にある大星橋付近は、鴨部川が淀んでおり上陸に適していると思われる。 この場所に遍路墓が3基あり、水上交通を利用していたお遍路さんもいたのだろうか。
付近に住んでいた老爺(生きていれば130才)が、自宅前の鴨部川に水上船が通っていたと孫娘に語っていた。前山ダムが完成する以前は、水量が現在より はるかに多かったと思われる。鴨部川を利用することで、小豆島と塚原地区との交通利便性が増したとも。

川原石を使った石段鴨部川へ降りる石段大星橋付近の鴨部川



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