バスは国道24号線を橋本方面へ紀ノ川を溯上するように快適に走る。2008年5月15日は旅には絶好の季節で好天にも恵まれた。
途中、道の駅「紀ノ川万葉の里」で昼食。時間の都合もあり、ここで淡路サービスエリアから積込んできた弁当を開く。
紀ノ川の流れを満喫しながら、周辺にラベンダーが咲きほこる東屋での食事は、なんとも言えない幸福感が沸きあがってくる。
九度山から高野山へは480号線をひたすら登る。車窓から眺める景観は、かの有名な山口素堂の
《目に青葉 山ほととぎす 初鰹》を思わず口ずさむほど新緑が濃く淡く、文字で表現できない美しいコントラストを作り出している。
480号線をしばらく登ると高野山台地に着き、まず出迎えてくれるのは丹塗りの大門。
この大門(重要文化財)は、高野山台地の西端にあり、西の入口の正門である。重層の五間三戸、入母屋造、銅瓦葺の楼門。
昔はここから慈尊院へ通じる町石道(大門口)と紀ノ川流域への竜神口があった。大門の建造は永治元年(1141)、その後焼失、
再建、焼失が繰り返され、現在のものは、宝永2年(1705)8月に落慶した。
大門から壇上伽藍まで約1000m で、高野山真言宗の総本山金剛峯寺に着く。
真言宗には様々な宗派があり、現在18宗派をかぞえる。高野山真言宗はそういった宗派のうちの一つで、
奥の院にある弘法大師廟を信仰の源泉としており、壇上伽藍を修学の場所として真言密教の教えと伝統を伝えている。
高野山は、和歌山県北東部にある陣ヶ峰、楊柳山、弁天岳など標高 1000m 前後の山々の間にひろがる平坦な山内台地(盆地)の総称で、
行政区割りは高野町に属している。
9 世紀に空海がこの地に真言宗金剛峯寺を創建した。金剛峯寺の名は、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経に基づいてつけた。
山内は杉木立の森林と、密教の文化財が多く存在し、国宝・重要文化財をはじめ、文化財といわれるものが20,000点近くある。
一般に高野山というのは、宗教的に大門から壇上伽藍を経て奥の院に至る塔頭子院を含めた一山全域を指している。
この地は高野山開創以前から東に大峰を中心とする修験を控えて、修験者が修行した山岳霊場であった。
空海の没後87年目の 921年朝廷から空海に弘法大師の諡(おくりな)がでて、真言宗徒の間に入定信仰を普及したことから、
高野山は修行の山から弘法大師信仰の山へと変化した。
正 門:
金剛峯寺前駐車場より境内に入って、ゆるい傾斜の石段を登ると古い門をくぐる、この門は1593年に再建されたもので、 金剛峯寺の建物の中で一番古い建造物。
金剛峯寺:
壇上伽藍の東北方にある。1869年(明治2年)豊臣秀吉ゆかりの青巖寺と興山寺を合併して、金剛峯寺と改称した。 青巖寺(剃髪寺)は秀吉が亡母の菩提のために建立したもので、豊臣秀次が自刃した場所としても知られている。 金剛峯寺の主殿(本坊)は江戸末期1863年に再建され、東西 54m、南北 63m の書院造建築であり、 座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、 寺内には狩野派の襖絵や石庭などがある。 境内は約 159,370u の広さと優美さを備えている。金剛峯寺の寺号は、元来は高野山全体を指す名称で あったが、明治以降は高野山真言宗の管長(座主)が住んでいるこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。
天水桶:
金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっており、その屋根の上に桶が置いてある。 これを天水桶という。防火用水の役目をしている。
鐘 楼:
正門をくぐって右手にある鐘楼は、金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼であった。その構造形式から万延元年 (1860)の大火で類焼後、主殿などの建物と共に鐘楼も1864年に再建されたものと考えられている。
梅の間:
襖絵は梅月流水(ばいげつりゅうすい)で、狩野探幽(1602〜1674)が描いたと伝えられている。
蟠龍庭:
御遠忌大法会(1984年)の際に造園された。2340u の石庭は、国内で最大級を誇っている。この石庭は、 雲海の中で向かって左に雄、右に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守っているように表現されている。
台 所:
金剛峯寺主殿と共に和歌山県指定文化財になっている。多勢の僧侶の食事を賄ってきたので釜も大きく、 柱や梁も煤で真っ黒になっている。水飲み場には湧き水を高野槇製の水槽に溜めている。 大きな「かまど」は現在も使用している。炭をおこす場所には防火対策として大きな煙突を設けている。 また、食物保存庫として床下収蔵庫や天井からつり下ろした台があり、つり下ろしの台は風通しをよくし、 さらに紙を垂らすことによって鼠の侵入を防いでいる。大釜は二石釜といい、一つの釜で約7斗(98s) のご飯を炊くことができる。三つで一度に二石(280s)、2000人分程のご飯が作れる計算になる。 焚き口は後にあり、床板を外して階段を降ると炊口がある。
金 堂:
ここはかって空海が創建したが、その後何度も焼失し現在のものは、 1937年に完成した鉄筋コンクリート造り。 本尊の薬師如来像は高村光雲作、壁画は木村武山筆。
根本大塔:
空海は金堂と高野明神を築造し、続いて大塔、その他の諸堂を造った。現在の根本大塔は、1937年の再建で、 真言密教の源泉という意味で根本大塔と呼ばれ、高さ 49m の鉄筋コンクリート造り。内部は16本の柱があり、 各々の柱に堂本印象画伯が描いた16菩薩と、壁面には真言八祖像と花鳥が描かれている。
不動堂:
1198年行勝上人が建立したもので、落雷による火災の多い伽藍で現存する最も古い建造物。鎌倉期の建造物として 国宝に指定されている。本尊の不動明王像は平安時代の彫刻といわれている。
弘法大師廟:
ここは弘法大師信仰の中心聖域で、水向場や灯籠堂、御廟などが静かに鎮座しており、読経の声、灯明、 線香の煙の絶えることがない。拝殿でもある燈籠堂は、14体の金仏が並び永遠の生命があるような不滅の 火が燃え続けている。
一ノ橋から御廟橋まで、およそ2q の表参道は、国の史跡でもある約20万基の墓碑群と鬱蒼たる杉の巨木が立ちならんでいる。 小さな五輪塔から巨大な廟までさまざまな供養塔は、奥ノ院が1100年の歴史の中で、仏教の宗派・宗旨を問わず 広く門戸を開いて尊崇を集めてきたことの証しだろうか。 我々一行は時間の都合で中ノ橋からの近道を通ったので、上杉謙信、武田信玄や柴田勝家の墓を見ることができず残念だった
豊臣家の墓地(県文化財):
石段をすこし登った所にある。玉砂利を敷き玉垣をめぐらした約300u の墓地に、数基の五輪塔が一列に並んでいる。 中央やや後方寄りの「豊臣太閤秀吉之墓」とある大五輪塔は、昭和14年(1939)に建立されたものであるが、 他は何れも天正15年(1587)から20年にかけて建立されたものである。
秀吉が高野山を無条件降伏させた2年後に、母のための逆修碑を建立している。その後秀吉自身の逆修碑をはじめ一族の 供養碑や逆修碑が次々に建立されたようで、江戸後期までの案内記には、どれも「太閤墓」の記載がある。 現在碑銘によって確認できるのは、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、 淀君の逆修碑と推定されるもの六基だけである。
織田信長の墓:
時代の風雲児信長の墓は、御廟橋の近く参道の左側を20m ほど登った所にあり、高さ約2m の五輪塔には信長の法名と 命日が刻まれている。信長の墓は江戸時代の記録にあることから、高野山文化財保存会の探索で1970年に発見された。
織田軍の高野山攻めは天正9年10月2日で、信長の三男信孝を総大将として13万7千の大軍が3日後には早くも登山口を封鎖し 紀の川筋一帯を占拠した。高野山方は蓮上院弁仙を総大将に僧兵や武装農民など雑兵3万6千であり戦力の差ははなはだしく 戦争にはならず高野山陥落は目前だった。この時期に明智光秀の謀反により本能寺の変が起こり、織田軍は囲み解いて 撤退したといわれている。
現在の奥ノ院には、永遠の安住地として個人や団体の多くの墓所、墓石や慰霊碑がある。 ユニークな墓や慰霊碑も目に付いたのでいくつか紹介すると… ロケット部品の製造をてがけているメーカーのロケット形慰霊碑、キャラクターの人形が鎮座している アパレルメーカーの社碑、白蟻駆除で財をなした会社の慰霊碑、白蟻の霊を弔うことが仏教の理念に基づいているのだろう。
高野山内の貴重な文化遺産を保存・展示する施設として、1921年に有志者の寄付よって開設された。 この時に建てた本館は1998年に登録有形文化財に指定されている。1961年には大宝蔵を増築し、 山内の国指定有形文化財(美術工芸品)の大半を収蔵することになった。更に2003年に収蔵庫が増設された。 現在保存しているものは国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美術品2件など、 約2万8千点を収蔵している。
記憶に残った文化財をいくつか紹介すると…
浅井長政夫人像(桃山時代・重要文化財):
浅井長政夫人お市の方は織田信長の妹で美人の誉れ高かった女性であったが戦国時代の荒波に翻弄された人物でもある。 この絵は浅井家の菩提寺持明院に浅井久政・長政像とともに収められていたもの。
両界曼荼羅:
密教では曼荼羅は大宇宙の本体としての大日如来をいろいろな姿で表したもので、仏の悟りの世界であり、宇宙の図でもある。 曼荼羅には胎蔵界と金剛界があり、前者は理を、後者は智を表すと見られ、理と智は不二であり、両界は同一であると唱えている。
沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃 (平安時代・国宝):
平安時代後期の作で、蒔絵技法を駆使した唐櫃として名高い。全体は黒漆塗で、各種の金粉を蒔き分け研ぎ出して沢に遊ぶ千鳥の文様を表している。
八大童子立像(鎌倉時代・国宝):
八大童子像の内の一躯で、1198年の運慶作と伝えられている。その作技などからも運慶ないし運慶工房で製作された可能性が高い。
霊宝館では、見学者の要望をとりいれたものなのか、それとも商売気を出しているのかコピー品を販売している。
・両界曼荼羅図= 金剛峯寺の両界曼荼羅図をカラー印刷して大中小の3種類を販売
・絵はがき= 霊宝館の主な収蔵品を絵はがきにしている
今夜の宿泊は遍照尊院の宿坊。霊宝館の隣で伽藍蓮池の前にある。増築で部屋数は多くなっているが、院内は迷路のようになり迷子になりそう。 泊まる部屋はあまり広くないが、TV・金庫・浴衣・歯ブラシ・タオルが用意されていた(以前泊まった善通寺は、何も無かった!)。 隣の部屋との壁が薄く、柱と壁の隙間ができており、隣の明かりが一晩中漏れているのはいただけない。 一度に50人の入浴が可能な高野山最大とのうたい文句で、陀羅尼風呂と名付けられている浴場は、古代檜の和風風呂と薬草風呂があり、 趣向はわかるが20人入浴が限界。他方、トイレはウォシュレット付で清潔感があり嬉しくなる。 広々とした大広間での食事は開放感があって気持ちがよい。給仕の若い坊さんが食事の前にルールを説明した。 説明の中にアルコール類が無いとのことでがっかりしたが、よく聴いてみると般若湯(酒の別名)はあるとのこと。 名前を変えることで柔軟に対応しているようだ。 早朝お勤め、本堂は広々としており、いす席も用意されて現代人には抵抗感がすくない。読誦は住職を含めて8名で室内の反響効果もよく神秘的な感覚に浸る雰囲気がある。 隣に着座していたカナダ人夫妻は、クリスチャンだそうだが郷に従って神妙に合掌して聞いていた。美人の奥さんに安産祈願を説明して勧めたら喜んで日本の作法どうりに祈願した。 住職の説教後、地下に降りて四国八十八ヶ所のお砂踏みができた。昨年から続いた四国八十八ヶ所研修の仕上げに相応しく、砂を踏むたびに過ぎた各寺の記憶が走馬灯のように走った。
壇上伽藍見学の後、西禅院の前で数珠屋四郎兵衛(みやげ物店)のマイクロバス2台に乗り込んで金剛三昧院の石楠花と国宝多宝塔を見に行った。
金剛三昧院は、北条政子が夫源頼朝の菩提を弔うために創建した。多宝塔(国宝)は、政子が我が子実朝の供養に建立したもの。
この多宝塔は日本三名宝塔の一つに数えられ、経蔵(重文)、四社明神社(重文)、客殿(重文)など歴史の古い建物が建ち並んでいる。
中世から近世の和風建築の素晴らしさが堪能できる寺院で、派手さはないが歴史的景観が良く保存されている。
多宝塔から経蔵の付近には樹齢400年の天然記念物「石楠花」があり、訪れた5月16日は満開で、最良の日にあたり目の保養ができた。
帰りのマイクロバスは当然のことながら数珠屋四郎兵衛店の前で停車。全員競って土産物の入手にはしった。
多宝塔(国宝) | 四社明神社(重文) | 石楠花 |
@ 大門口 A 不動坂口 B 黒河口 C 龍神口 D 相の浦口 E 大滝口 F 大峰口 |
高野山台地へ登る道は、高野浄土信仰の広まりで各地からの参拝者が増加したことから、高野七口と呼ばれる七つの登山ルートが確立された。
高野山への参拝者には女信者も含まれていたが、かって高野山は女人禁制であり女性は山内に入れなかった。
七口すべてに女性のための女人堂がつくられ、ここで足止めされて一晩中真言を唱えていた。
現在残っている女人堂は不動坂口のみで、他の入口には女人堂跡が残っている。
高野山の外周(外八葉の峰々の稜線)には女人道があり、女信者は山から山を巡りながら垣間見える壇上伽藍や奥ノ院に
手を合わせて参拝したといわれている。
高野台地からの帰りは、来た道と同じ480号線を曲がりくねって標高を下げていく。 昨日の上りは、これから目の前に開ける新しい景色や未知の世界への期待で胸が膨らみ、興味津々で目はパッチリと開いていたが、 帰りの今は総てに対する満足感とともに怠惰も加わり、自然に目蓋が塞がってくる。九度山町まで下ると、次の目的地である慈尊院は目と鼻の先だった。
2004年に、高野山や高野山町石道とともに『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。 いい伝えによると、空海は高野山を任されたとき、高野山参詣の要所に当たるこの九度山に、 表玄関として伽藍を創建し庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした。 高齢になった空海の母は、息子が開いた高野山を一目見ようと善通寺市から来たが、 当時高野山内は七里四方が女人禁制で入山できない、しかたなくこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。 弥勒菩薩の別名を慈尊と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。 また、空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、死去して本尊に化身したという信仰が広がり、 慈尊院は女人結縁の寺として知られ、女人高野とも呼ばれるようになった。
慈尊院の土塀 | 多宝塔 | 弥勒堂 |
弥勒堂(四面宝形造桧皮葺・重要文化財): 鎌倉時代後期の建築
高野山町石道(史跡): 慈尊院から高野山へ通じる高野山の表参道で、 空海が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。 町石は、鎌倉時代に現在のような御影石の五輪型卒都婆に建て替えられた。高さ約 3m 、幅 33cm で、山上の根本大塔を基点にし、 慈尊院に最後の 180 町石を建て、胎蔵界 180 尊にあて、さらに大塔から奥の院までの 36 町石を設け、金剛界37尊とした。現在も梵字が刻まれた町石が残っている。 180 町石は慈尊院から丹生官省符神社への石段の途中にある。
九度山町を出たバスは、紀ノ川に沿って国道24号線をかつらぎ町、紀ノ川市、岩出市を経て42号線にはいり和歌山市紀三井寺に到着、 「岩出ホテルいとう」で昼食後、ここから徒歩で西国2番札所紀三井寺へ。
紀三井寺は、和歌山市紀三井寺にある仏教寺院。真言宗山階派に属していたが、現在は独立して救世観音宗総本山を名乗っており、末寺は12ヶ寺ある。
本尊は十一面観音で、西国三十三箇所第2番札所。
寺号は正式には紀三井山金剛宝寺護国院といい、宗教法人としての公称は「護国院」であるが、古くから「紀三井寺」の名で知られている。山内に涌く三井水(清浄水・楊柳水・吉祥水)は、「名水百選」に選ばれている。
紀三井寺の三井水(さんせいすい) :
1200年来の寺名の由来となった三井水は万葉集にも歌われた名草山の中腹にある清浄水、楊柳水、吉祥水という3つの井戸のことで、今も滾々と湧き出ている。 中でも、清浄水は古来より名泉中の名水として、茶の湯、お華の水など様々な用途に使われてきた。酒や味噌、醤油などの醸造にはこの霊水を混ぜて仕込んだようだ。
紀勢線踏切を越えて、両側にみやげ物屋が並んでいる参詣路をしばらく進むと朱色の楼門に着く。ここが正面入口で入山料を払う必要がある。入山してすぐに 231 段の長く急な石段がある。この山(寺)は日本の交通ルールを遵守しており右側通行だ(いままでの88ヶ所寺の間違った交通ルールはなんだろう…)。
石段の中ほど右側に「清浄水」があり、そこから山腹を巻くように奥へ 100m ほど進むと「楊柳水」がある(「吉祥水」は、楼門の 30m 手前を左に曲がり、更に 800m ほど歩いて名草山へ 150m 登ると心地よい水音をたてている吉祥水に出合う)。
231段の石段を上り詰めると、平坦な境内になっており、六角堂・鐘楼・大師堂が一列に並び、その奥に唐破風屋根を備えた本堂がある。
231段の石段 | 六角堂 | 鐘楼 |
本堂の右にある33段の石段を登ると山腹を切り開いた平地になっており、開山堂と多宝塔が建っている。
ここからは和歌浦が一望でき、万葉歌人が歌った片男波の海岸線が美しい弧を描いており、すばらしい景観が目に飛び込んでくる。
本堂 | 多宝塔 | 芭蕉の句碑 |
紀三井寺は関西の桜の名所になっているが、われわれが訪れた5月16日はすでに散って痕跡も無い状態で、まさに松尾芭蕉が嘆いて詠んだ句が当てはまる。
みあぐれば 桜しまふて 紀三井寺
高野山は、年間雨量 3000mm 以上を記録する日本でも有数の多雨、雷多発地帯である。 標高 900m の山上台地に壇上伽藍と奥の院を中核にして、117ヶ寺が集い一大宗教都市に発展してきた歴史がある。 2004年に『紀伊山地の霊場と参詣道』の名称で世界文化遺産に登録されたことにより、弘法大師信仰を求める信者の参拝だけでなく、 文化財遺産を検証する人、寺巡りしながらハイキングを楽しむ人、外国の旅行者も増加している。 高野山町石道(ちょういしみち)は、山麓の慈尊院から大門を経て奥の院へ至る約 24km の参道。 高野七口といわれる七つの参詣道のうち、1町(109 m)ごとに町石が立てられているこの道は、皇族や武士達が上った表参道だった。 一般庶民が登ったのは不動坂のある不動口で、途中に茶店や旅籠もあって賑やかだったと思われる。
名草山の懐にある紀三井寺は、寺名の由来にもなった 三井水が湧き出る井戸を持ち、文化財の建造物も多く、 また関西の桜の名勝にもなっている。231段の長い急な石段には、紀伊国屋文左衛門の逸話から結縁坂の名がある。