Last Update: Jan. 09, 2014
Written by S. Miyoshi
さぬき市長尾には6基の庚申塔がある。一般的に庚申塔は、庚申信仰に基づいて建立されたもので、文字塔と刻像塔に分類される。
この信仰の重要な儀式として庚申待が平安時代からあった。
庚申とは、十干十二支の「かのえさる」のことで、60日に1回廻ってくる。道教の民俗が色濃く影響した庚申の日は禁忌の日で、夜寝ないで過ごす庚申待の催しを
集落で行っていたが、現在ではあまり聞かれない。
長尾では、庚申塔は5基の刻像塔と1基の文字塔が見つかっている。それぞれに独特の雰囲気をただよわせており、現在でも地区の人々の深い信仰対象になっている。長尾にある庚申塔について、大きさ、
石材、造立年代、形状や歴史>的な背景を調べた。
道教の三尸説に、日本の密教・神道・修験道や、民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に習合して庚申信仰ができあがった。
三尸説によると、人間の体内には生まれながらにして三尸の虫がいる。この三尸虫は、上尸・中尸・下尸の3種類で、上尸は道士の姿で頭部、中尸は獣の姿で腹部、
下尸は牛頭に人の足の姿で脚部に潜んでいて、大きさはどれも約6pとされている。
三尸虫はいつもその人間を監視しており、庚申の夜に人間が寝ている間に身体から抜け出して、天に登り天帝にその人の行状を報告する。報告を聞いた天帝は、
罪状の軽重によって寿命を縮めたり、死後に六道の地獄・餓鬼・畜生におとすとされている。
この災いから逃れるためには、三尸の虫が天に登れないように、この夜は集落の人達が集まって本尊である青面金剛を祀り、
経を唱えたり飲食したりなどして翌朝の1番鶏が鳴くまで寝ずに語り明かす。これを庚申待といった。
庚申待の儀式は、平安時代の貴族社会で始まり、鎌倉時代の武家社会を経て、次第に一般民衆の間に浸透した。江戸時代には全国規模で広まり各地に庚申講が結成され、
それにつれて庚申塔が造立された。庚申塔は道祖神とも習合して、集落の境や田畑を見下ろす高台などに、五穀豊穣、無病息災、悪疫退散、子孫繁栄などを願って
祀られたと考えられる。
庚申信仰も大正時代に入って急速に衰えた。これには明治元年の神仏混淆禁止令によることや、人々の生活様式が大きく変わったことが影響していると考えられる。
庚申塔には、文字塔(文字が陰刻)と刻像塔(青面金剛などが浮き彫り)がある。長尾地区には文字塔は見つかっていない。
(1) 文字塔 仏教系では庚申塔、庚申や青面金剛など、神道系では猿田彦明神などの文字が陰刻されている。梵字種子や経文を記しているものもある。
(2) 刻像塔 青面金剛を浮き彫りにしており、3猿、鶏、邪鬼なども配している。一般的に庚申塔というときは、このタイプをさすことが多い。
文字庚申塔(安曇野市) | 刻像庚申塔と双体道祖神(安曇野市) |
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@ 道祖神のような庚申塔
(1)いろいろなタイプの庚申塔があるが、その中でも最も多く代表的なものが青面金剛刻像塔である。この庚申塔には青面金剛、猿、鶏、日月、邪鬼が刻まれており、
それぞれに由来や意味がある。
【青面金剛】青面金剛は、インドから伝わってきた仏教の尊像ではなく、中国の道教思想を基に日本の民間信仰の中で独自に発展した庚申信仰の尊像である。
庚申講の本尊として知られており、三尸を押さえる神とされている。
【3匹の猿】道教では天帝を北斗星君と同一することがあり北斗星君は天・地・水の3官とともに人の功過善悪を調べ、生死禍福を司るとされている。
庚申信仰は、この北斗星君を本地仏(ほんじふつ)とする比叡山の山王信仰と結びつき、山王権現の使者である猿(申(さる))という連想から庚申と結びついたと
考えられる。また、3匹の猿は古代エジプトにも見られ、シルクロードを経由して中国へ、更に日本へ伝わったという説もある。
【1対の鶏】申の翌日は酉(とり)で、庚申待ちの不望んだ希望の鶏である。
【月輪・日輪】陰陽道では森羅万象を陰と陽の2元論で説いており、月が陰、日が陽である。これが平安貴族の間で流行した月待ち、日待ちなどの習俗と混交して、
次第に庚申待ちという念仏講的色彩の濃いものになり、月輪・日輪として彫られたと考えられる。
【邪鬼】祟りをする神、物の怪などの総称。
【ショケラ】 ショケラは、精螻蛄の字があてられ、青面金剛が左手で頭髪をつかんで下げている半裸女人像の姿で現わされている。ショケラの語源は、「しゃく虫」
から「しゃけら」に変化したものであり、商羯羅(しゃんから)天のことである。商羯羅天は密教大事典によると大自在天(ヒンズー教のシヴァ神)の化身の一つとされている。
三尸虫(商羯羅天)を退治する青面金剛が、商羯羅天を征伐する姿に変化していき、奈良の金輪院(小泉庚申堂)の僧が女人像を創造し、掛け軸にしたのが始まり
といわれている。
(2)庚申信仰の起源
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宇佐八幡宮(大分県)に伝わる現存最古の『庚申縁起』には、「大宝元年辛丑正月七日庚申の刻に、摂津国難波天皇寺の僧民部僧都重善のもとへ、帝釈天の使者の
童子が下りてくる…」という文があり、三尸の虫と庚申待ちの方法を教え、庚申信仰をすれば諸願もかなうとされている。この縁起を天台宗・真言宗・日蓮宗が取り
入れて広めたとする説がある。一方、神道家は日本在来説を唱えた。鎌倉時代から神道的に行なわれていた形跡はあるが、江戸時代以降に猿田彦庚申も青面金剛庚申
も盛んになった。民俗学者の柳田国男は『二十三夜塔』の中で「日本にはもともと夜籠(よごもり)りをする慣習があり、そこへ中国から三尸の説が及ぶにつれて、それをカノエ
サルの日に決めて行事を続けた」とあり、三尸説の渡来以前に日本古来のものが存在したといっている。
仏教では庚申の本尊を青面金剛に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の申(さる)が猿田彦の猿(さる)と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の
使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の3猿が殆ど彫られている。
長尾にある庚申塔は、仏教系の青面金剛刻像塔(5基)と文字塔(1基)である。石材は殆どが砂岩であるが、明治以降は花崗岩が使われている。石工の彫刻技術の上達によるもの と推察できる。庚申信仰は道教の三尸説を色濃く滲ませ、これに日本古来の伝統的習俗のほか仏教や神道とも習合して成り立っている。また、根底には日待・月 待の習俗があり、庚申塔に日輪、月輪が刻まれている。
【参考文献】
- 飯田道夫 「日待・月待・庚申待」 1991 人文書院
- 飯田道夫 「庚申信仰」 1989 人文書院
- 平野実 「庚申信仰」 1969 角川選書
- 窪徳忠 「庚申信仰の研究 上巻・下巻」 1996 第一書房
- 窪徳忠 「庚申信仰」 1956 山川出版社
- 国遠一夫 「讃岐・阿波 庚申塔」 1971 上田書店