快天山古墳ロゴ


Last Update: November  21,  2017
Since: November  30,  2008

名  称:快天山古墳読  み:かいてんやまこふん
所在地:丸亀市綾歌町栗熊東字若狭917指  定:国指定 史跡名勝天然記念物

快天山古墳は、香川県丸亀市綾歌町栗熊東に所在する長さ 98.8 m、高さ 10.55 m の前方後円墳で、築造されたのは4世紀の中頃。
古墳がある場所は平地部から約 40 m の高さのある丘陵の尾根の先端部分(標高約70m)にあり、 前方部は尾根の高い部分で地面を削りだして造り、後円部の上半分は尾根の低いほうに土を盛り上げており、 下半分は地面を削りだしているようにみえる。

快天山古墳の航空写真

快天山古墳


快天山古墳の立地

快天山古墳は、横山山塊から南に派生する尾根の最南端丘陵上に造られており、丸亀平野の南東隅に位置している。
これは讃岐の前期前方後円墳の特徴であり、丘陵先端部に前方部を上方に向ける配置をしており、墳丘の主軸は方位に制約されることなく 丘陵主軸と平行になっている。 後円部の墳頂からは丸亀平野のほぼ全域と綾川水系上流域を眺望することができる。


快天山古墳の概要

墳丘は、本格的な段築構造を取り入れた前方後円墳の初期段階のもので、前方部3段、後円部3段あるいはそれ以上の段築があったようだ。 各段のテラス部には円筒埴輪が、斜面部には葺石が配されていた。
後円部には3ヶ所の埋葬施設があり、それぞれ刳抜式割竹形石棺が確認されている。石棺は鷲ノ山産石材が使われており、割竹形石棺を採用した最も古い時代のものと考えられている。
築造位置は、ほとんどが尾根を削って造られているが、後円部の上半部は盛土で構築されている。
墳丘の主軸や埋葬施設の主軸から、讃岐型前方後円墳の築造様式と畿内前方後円墳の築造様式の両方の特徴が見られることから、畿内の古墳文化に影響を与えているとも考えられている。



復元イメージ 石棺配置
墳丘規模と復元イメージ墳頂部の石棺配置


石棺

後円部の墳頂にある3基の石棺は、作成された時期は各々異なるが鷲ノ山(高松市国分寺町)産の角閃安山岩が使われている。
形式は刳抜式割竹形石棺で、外方の断面は半月形に造られ内外面に細工が施されている。
被葬者はこの地方で強大な権力をもっていた首長(1号石棺)とその妻(2号石棺)、及び近親者(3号石棺)の同一血族と考えられる。


石棺展開図
1号石棺                  2号石棺                  3号石棺


出土遺物

1号石棺は江戸から明治時代にかけて何度か盗掘にあった様子で、蓋は3つに割られており棺内にはなにもなかったが、 石棺周囲に多数の遺物が発見された。2号・3号石棺は持ち去られた形跡はなかった。
副葬品のなかに後漢時代の"獣文縁方格規矩四神鏡"があった。このことから畿内政権と交流があったと考えられる。


― 出土遺物(石棺内外の副葬品) ―

1号石棺2号石棺3号石棺
棺内棺外棺内棺外棺内棺外
装身具
11
1破片 1
管玉
3
2

勾玉
1



石釧
2



武器鉄矛




1
鉄剣
4
31
鉄刀
破片 3



鉄鏃
20



農耕具鉄刀子
32


鉄鑿
2



鉄斧
2
1

鉄し
1



鉄鍬
1



鉄鎌
1


1
土製品土師壷




1


おわりに

この Home Page を作成するにあたり、丸亀市文化財保護協会の遠藤亮さん、大高久夫さんの研究資料の頼るところ大でした。 特に、大高久夫さんは「快天山古墳」の保存に情熱を注ぎ込んでいる姿をみるにつけ、深い感銘を覚えました。
快天山古墳は文化財登録では快天山かいてんやま古墳であるが、大高さんはあえて 快天山かいてんざん古墳と地元で呼ばれている名を呼称しているのは、この古墳をそれだけ愛していることだと理解しました。





快天山のROADMAP & 航空写真


2017.11.19 発掘調査現地説明会("快天山古墳を守る会" Home Page より)


【参考文献・データ】
  1. 快天山古墳発掘調査報告書(2004)   綾歌町教育委員会
  2. 国指定史跡 快天山古墳   快天山古墳を守る会(代表 大高久夫)
  3. 綾歌町史   
  4. 綾歌町のふるさと探訪   
  5. 快天山古墳の参考資料(2008.11)   遠藤亮