Last Update: Jun. 01, 2011
所在地 | 福井県小浜市神宮寺町 |
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山 号 | 霊應山 |
宗 派 | 天台宗 |
本 尊 | 薬師如来坐像 Bhaisajya-guru |
文化財 | 重要文化財[本堂 仁王門 男神・女神] 大膳院 椎の木 |
若狭の小浜にある神宮寺は元明天皇の和銅7年の創建とされ、寺伝によると遠敷明神(若狭彦命)の直孫和朝赤麿公が 金鈴を長尾明神と祀り鈴応山神願寺を創建した。翌年勅願寺となったことに始まるといわれている。さらに、若狭彦姫神 を根来白石より迎え神仏両道の寺とした。鎌倉時代に神願寺は遠敷明神上社(若狭彦)と遠敷明神下社(若狭姫)の 別当寺となり、神宮寺と改称したとされている。
明治4年の国家神道により若狭彦神社は国幣社となり、境内にあった遠敷明神社は神仏分離令により取り壊された。しかし、 現在の本堂の内陣には、中央正面と左側は須弥檀になり薬師如来を本尊として仏像が並んでおり、右側は壁面で、 この壁面は勧請座(影向座)といわれ神号掛軸3福が掛かっている。神仏分離令をいかにして潜り抜けたのであろうか。
この本堂は重要文化財で、天文22年に朝倉義景が再興したといわれている室町時代の堂々たる大建築で、和様を主体に 木鼻に天竺様繰形、唐様束梁などの珍しい技法を用いている。 住職によると、本堂内で二拍一礼でお参りするのは、この寺だけとのこと。本堂入口には"しめ縄"が張ってある。
若狭神宮寺の周辺地図 | お水送り神事の"鵜之瀬(遠敷川)" |
本堂の平面見取図 | 神号掛軸 |
神宮寺本堂 室町時代・重要文化財 和様唐様天竺様折衷 | 茶室 萱葺き屋根 6畳茶室・囲炉裏のある8畳間 |
スダジイの木 天然記念物・樹齢推定500年 幹周り6.4m 高さ18m |
閼伽井戸 ここの水を上流2kmの鵜之瀬に流す 10日間で東大寺の若狭井に到達する | 仁王門 鎌倉時代・重要文化財 切妻造り二軒和様八脚門 | 大膳院(桜本坊) 江戸初期・表門は桃山時代 書院庭園 |
若狭国神宮寺は714年に開創され、当初「鈴応山 神願時」と呼称されていた。当寺の開祖は神体山に紫雲たなびき 鈴音が鳴り始め7日経っても止まない奇遇を不思議に想い、天神に祈ると「金鈴」が天から降ってきたと伝えている。 それを当地の地主神(那伽王)と祀り、古来より除魔と守護のご神体とされてきた。
その金鈴を模した御守りが、この《ワニ鈴》である。鈴の中にある玉はほとけ心(仏性、神性)その外側は物質我欲で淘汰し合う、 至りたくとも至らぬ因われの心と想う。この除魔鈴は鳴り成らせぬ魔を祓い人々に「心の鈴」を鳴らすご縁を授けると 伝えている。(神宮寺 leaflet より)ワニ鈴 ワニ鈴の由来
重要文化財; ・本堂堂 −- 室町時代後期 ・仁王門 −- 鎌倉時代後期 ・男神(若狭彦) −- 鎌倉時代前期 ・女神(若狭姫) −- 鎌倉時代前期 その他の文化財 ・椎の木(スダジイ) −- 市指定天然記念物 ・本尊薬師如来坐像 −- 本堂安置、藤原時代 ・脇侍日光月光菩薩立像 −- 本堂安置、藤原時代 ・十二神将立像 −- 本堂安置、鎌倉時代 ・十一面千手観音薩菩坐像 −- 本堂安置、奈良時代 ・不動明王立像 −- 本堂安置、平安時代 ・毘沙門天立像 −- 本堂安置、平安時代 ・北門仁王像立像 −- 鎌倉時代 ・開山法体像一木坐像 −- 奈良時代
この地方は若狭の中心で、白鳳以前からひらけており、谷は上陸した大陸や半島の文化が大和へ
はこばれる最も近い道であった。この地方を拓き国造りをした祖先が遠敷明神(若狭彦命)で、発祥地が根来の白石で
あった。遠敷明神の直系孫和朝臣赤麿が、8世紀初め山岳信仰で銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し、地主の
長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建した。根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の
道場にした。これが若狭神願寺の起源である。鎌倉時代には若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称した。 根来白石の神童が長じて東大寺開山堂の良弁僧正になった繋がりから、奈良二月堂のお水取り行法の水は若狭井(東大寺)の水が 使われており、この水は神宮寺の閼伽井戸(あかいど)の水を3月2日に遠敷川(おにゅうかわ)の鵜之瀬へ流すこと(水送り)で 3月12日に到達するといわれている。(神宮寺 leaflet より) | ||
【参考文献・データ】
- 『江戸時代図誌』vol.12 筑摩書房、1976
- 『国史大辞典』 吉川弘文館
- 『若狭神宮寺』 リーフレット 神宮寺