Last Update: January  06,  2018
Since: December   06,  2017

    円仁えんにん(794‐864) は、平安時代の天台宗の僧で、延暦寺第3世座主、山門派の祖。俗姓は壬生みぶ。 808年、15歳のとき比叡山に登って最澄さいちょうの弟子となった。838年遣唐使の船に乗って遣唐使として入唐した。
中国での9年半の旅路を『入唐求法巡礼行記』に著した。847年、帰国して最澄の業績を発展させ『顕揚大戒論』の著述し、法華懺法を完成するなど天台宗興隆 の礎を築いた。没2年後に日本で3番目の大師号である≪慈覚大師じかくだいし≫を授けられた。

Jikakudaishi-Ennin (794-864) was a monk of the Tendai sect of the Heian era, the 3rd Zasu (generation) Enryakuji temple, the father of the Sanmonha (the main gate of Tendai sect). The secular surname (Family name) were 壬生 (Mibu).
In 808, when he was 15 years old, He climbed Hieizan and became a disciple of Saicho. In 838, he got on a ship of the Tang Dynasty and entered as a Tang Dynasty China).
He wrote his journey in China for 9 and a half to "入唐求法巡礼行記 (Tang Demon Pilgrimage Pilgrimage Record)". In 847, he returned home and developed the best performance, he wrote the book "顕揚大戒論 (kenyodaikairon)".
Two years after the death, he was awarded "Japan Daishi" which is the third Daishi's number ≪慈覚大師≫ in Japan.



比叡山、慈覚大師御廟への航空写真/ルートマップ
Track-Log by Garmin [etrex LEGEND HCx]




名 称慈覚大師御廟
標 高540m
場 所大津市坂本本町
探 索2017.12.06



    円仁の埋葬地は、比叡山の天梯権現祠てんたいごんげんほこらから北へ延びる尾根道を 700m 離れた所と山形市の立石寺(山寺)入定窟の2カ所がある。 1948年に行われた山寺入定窟の予備調査で、入定窟内から金箔を押した木棺が発見され、棺内にはいくつかの人骨と共に木彫の首1個が納められていた。 1949年からの本調査では、棺内に5体分の人骨が納められていた。当時、調査した 鈴木尚 (1912--2004)は、第4号人骨とされた化石化の進む老年男性の人骨(頭蓋骨が無く、大腿骨等の4本で構成)が、円仁の遺骨である可能性が最も高いと 判断した。 棺内から発見された木彫の首は、頭と顔だけのもので、後頭部は平らにそがれており、初めから平らな所に置くことを予想しての作品とみなされる。 首は実大で、最初は生前の顔の様に着色されていた。平安時代初期の極めて優れた作品で、初めから頭部だけのものとしてつくられており、頭蓋骨が無い棺内に、 円仁の首を模した木彫として納められたものと考えられる。上記のことから、比叡山の慈覚大師御廟には円仁の頭骨が埋葬されている可能性がある。



コースタイム
[文殊楼〜慈覚大師御廟]     文殊楼 →00:06→ 法然堂 →00:07→ 聖尊院堂 →00:12→ 慈覚大師御廟
[延暦寺会館〜慈覚大師御廟]  延暦寺会館 ←00:05← 法然堂 ←00:07← 聖尊院堂 ←00:10← 慈覚大師御廟


        
文殊楼 -重要文化財-法然堂聖尊院堂(天梯権現祠)
天梯権現御廟への指標御廟への道
延暦寺僧侶の墓慈覚大師御廟(華芳御廟)慈覚大師の卵塔

Comment:  慈覚大師円仁廟は、文殊楼(標高 670m )から延暦寺会館横を通る本坂(根本中堂から坂本へ繋がる道)の急勾配を転げ落ちるように降り、 法然堂を通過して天梯権現祠に着く。
この場所は比叡山四大魔所といわれている天狗の住んでいる場所とのこと。 朽ち果てた堂(天梯権現祠)や薄暗い針葉樹林に覆われており、薄気味悪い所といえる。「慈覚大師御廟道」の石碑に従い、細い登山路をぐんぐん降る。 しばらく降ると道の両側に卵塔が立ち並んでおり、延暦寺の僧籍者の墓である。この場所を通過してしばらく進むと道の正面に慈覚大師御廟(華芳御廟)が現れる。 文殊楼からこの地までの高度差は 130m 。帰りはこの坂道を登り返さなければならない。御廟の石柱柵の中には、「慈覚大師塔」と刻んだ卵塔が建っている。 この中に慈覚大師円仁の頭骨があるのだろうか。いや、実在していると確信したい。
立石寺入定窟に頭骸骨が無い理由は(想像ではあるが)、円仁が比叡山慈叡房で入滅した時、その遺骸は取り敢えず付近の華芳御廟に一時葬られたが、 その後彼の遺言を尊重した弟子達が嘗て彼が東北地方を巡錫した際に開いた立石寺に、その遺骨を移したものと考えることが出来る。
最初に遺骸を埋葬したところに頭骸骨だけを置くことになり、その代りに立石寺に移した胴体部の骨の方に木造の頭部を付加した。

The way to Jikakudaishi-Byo descends from the steep slope of Honzaka passing by the side of Enryakuji Kaikan, arrives at the Tentaigongen-hokora via Honendo. This place is said to be the place where the Tengu (long-nosed goblin) lives. It is covered with a decayed doodle and a dimly coniferous forest, a spooky road.
Follow the stone monument that shows the Gobyodou and further descend a narrow mountain path. After a while, the Rantou (egg towers) stand on both sides of the road. It is the grave of the monk of the Enryakuji temple.
Go forward for a while and in front of the road Kahou Gobyo emerges. The altitude difference from Monjyu-rou Tower to this place is 130 m. On the way back, I climb this slope back.
In the stone pillar of the Gobyo, there is an egg tow carved into the "Jikakudaishi-Tou (tower)". Is there a skull of Ennin in this ?
The reason why there is no skeleton in the Risshgakuji Temple cave is that when Ennin died in the Jieibo clan in Hiei, the remains were buried in the nearby Kahou-gobyo Shrine.
After that, it is thought that the disciples who respected his will will have moved their remains to Risshakuji Temple.
It is thought that putting only the head skull in the place where it was originally buried, and wearing a wooden head on the bone of the torso part in Risshakuji Temple.

参照; 宝珠山 立石寺




延暦寺のVIEWPOINT

  
琵琶湖大講堂 -重要文化財- 戒壇院 -重要文化財-




 【参考文献】

・鈴木 尚   『山寺の入定窟調査について』     山形県文化遺産保護協会    1950
・小林 剛   『慈覚大師の木造頭部について』
・山形市教育委員会  『山形市内仏像調査報告書(追補版)』  東北芸術工科大学   2009
・佐伯有清  『慈覚大師伝の研究』    吉川弘文館            2013



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