弥谷寺信仰遺跡


Last Update: October 30, 2011
Written by S. Miyoshi

1 はじめに

四国八十八ヵ所霊場第71番札所"弥谷寺いやだにじ"は、弥谷山(381.5m)の南側中腹に立地する山岳寺院である。 昔から弥谷山を囲む周辺の地域には、死者の霊は近隣の山にのぼって永くその山に留まるという強い民俗信仰があった。 この民俗信仰と仏教の極楽浄土信仰が融合して弥谷信仰が醸成されたと考えられる。
 1968年に香川県指定史跡になった指定箇所は「賽の河原」「獅子窟 石室及び磨崖仏」「比丘尼谷の磨崖仏」「水場と大小無数の五輪塔」 の4つの地域である。

2 賽の河原

仁王門から灌頂川(三途の川)に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が賽の河原である。 六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られている。賽の河原は西院河原ともいわれている。
法華経方便品ほうべんぼんには子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると 説いている。西院河原地蔵和讃*1はこのことをうたっている。  賽の河原の地蔵の頭は厚肉彫りで大きく、首が細く、左右の手はのどもとで合掌している独特の弥谷地蔵浮き彫りである。

賽の河原 法雲橋
賽の河原の地蔵三途の川に架かる法雲橋
*1 『西院河原地蔵和讃さいのかわらじぞうわさん』 (空也上人の作といわれている)
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き
南無延命地蔵大菩薩   Aum ha ha ha vismaye svaahaa (オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ)

3 獅子窟 石室及び磨崖仏

法雲橋を渡って赤い手摺の百八煩悩階段(108段)を登ると庫裡の平坦な外庭に出る。獅子窟は大師堂の奥にある。 凝灰角礫岩の山肌をせん孔して石室としている。獅子が口を開いて吠えているように見えるので、獅子窟とよんでいる。 獅子窟の奥には曼荼羅壇があり、奥壁に阿弥陀如来の坐像が2体、側壁に金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)されている。左の奥壁に地蔵菩薩があり、左右の側壁にも陽刻してある。 このように自然の山肌の露出した岩壁に彫刻された仏像を磨崖仏という。
 わが国では磨崖仏は平安後期ごろから大規模な厚肉彫りのものや、石窟が見られるようになった。獅子窟の磨崖仏は表面の風化と 護摩(火をたいて仏に祈る修法)を永年にわたって焚き続けたために石室の内部が黒く煤けて、照明も暗く細かいところが観察できない。 彫刻の表現は、鎌倉時代の特徴である男性的で重厚さが強く打出されている。

曼荼羅壇 大日如来
獅子窟の曼荼羅壇大日如来坐像

4 比丘尼谷の磨崖仏

岩窟護摩前から左へ大悲殿の北の岩壁の南隅までの切り立った岩壁に、磨崖仏や五輪塔などが彫られている。

五輪塔陽刻
本堂横の五輪塔陽刻

五輪塔

陽刻の五輪塔

凝灰角礫岩岩壁の下方に無数の五輪塔が浮き彫りされている。五輪塔の制作は鎌倉時代にはじまった。 弥谷信仰遺跡の五輪塔は、空、風、火、水、地をくっきりと陽刻している。地輪の正面に横20 cm前後、上下約25 cm 、深さ15 cm 程の 矩形の穴が掘られている。水輪にもこのような穴を穿っているのもある。この穴は死者の爪や遺髪を紙に包んで六文銭と一緒に納めて まつる習俗が伝承されていた。このような五輪塔を納骨五輪塔という。
この習俗は曝葬(山地・原野などの空気中にさらしておく葬法)という。

阿弥陀三尊像

阿弥陀三尊

南面高さ約12mの岩壁中央に、浮き彫りの阿弥陀三尊の坐像がある。鎌倉末期の作品で、 中央には舟形光背をもった阿弥陀如来像は高さ約1m、右(左脇侍)の観世音菩薩像、左(右脇侍)の勢至菩薩像はともに 約90cmの三尊像。表現は、やや力強さに欠けるが温和な表情があふれており、念仏の行をささげることによって、必ず往生できることを 約束する姿として崇敬されていたと考えられる。  日想観(西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留め、極楽浄土を見る修法)によって、東、西、北と山に包まれ南だけ広々と 開けた岩壁の中央(南面の絶壁)に、夕陽を浴びた阿弥陀如来の御来迎(Brocken Gespenst)*2を感得して生まれた作品であろう。

*2 Brocken Gespenstは太陽などの光が背後からさしこみ、影の側にある霧粒などで光が散乱され、 見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象。ドイツ中部のブロッケン山(1141m)で起こりやすい現象で、 ブロッケンの妖怪といわれている。
 日本では阿弥陀如来が説く空中住立の姿が現れたと考えられ、御来迎ごらいごう、仏の御光などと呼ばれている。

南無阿弥陀仏の名号

南無阿弥陀仏の名号

死後に浄土へいくためには昔から@塔や寺を建てる A写経や寺まいりをする  B石に経文や文字を書いて寺へ納める C寺や僧に寄進する D死者の骨を納める E霊場巡りをする F念仏講につとめる  G報恩講につとめる H地蔵信仰をする ことなどが挙げられるが、弥谷寺では岩壁に陽刻された阿弥陀三尊像に向って右に二枠、 左に一枠を削り、枠の上下約2.7m、横約3mの正方形に近い縁どりをし、その中に「南無阿弥陀仏」六号の名号を明確に三句づつ ならべて陰刻してある。

護摩堂(求聞持窟)

岩壁をせん孔して造った石室である。中には道範阿閣梨の石の坐像がある。 道範は仁治4年(1243)讃岐に流され7年の間仏蹟を訪れるかたわら民衆に教義を説くことに専念した。ここの奥には護摩壇が設けられて おり、護摩を焚き続けたことにより内壁の黒ずみになっている。

求聞持窟 道範阿閣梨坐像
護摩堂道範阿閣梨坐像

5 水場と大小無数の五輪塔

阿弥陀三尊の磨崖仏から数段降ったところに、讃岐城主生駒氏の巨大な五輪塔があり、更に階段を下ると 左手奥のうす薄暗い所に水場がある(通夜堂の横)。

水場(加持水)

苔むした巨岩の隙間から一年中滴り落ちる水を貯めた水場には、加持水を供えられた沢山の位牌が 祀られている。また、水経木もうず高く積み上げられている。

静薬師 案内板
水場

無数の五輪塔

阿弥陀三尊像を刻んだ絶壁の下方に無数の五輪塔がある。その中に一際大きな五輪塔が、 生駒一正の遺髪を納めたものといわれている。
ここの五輪塔の造られた時期は江戸時代のものが多く慶長、元和、延宝、元禄、宝永、正徳、享保、天文、寛保、延享、 寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、文化……などの各年代のものが読み取れる。

生駒一正の五輪塔 香川氏の五輪塔
生駒一正の五輪塔天霧城主香川氏の五輪塔

6 おわりに

弥谷寺信仰遺跡は、霊は山を棲処とするというわが国固有の信仰と仏教の浄土思想による阿弥陀信仰、 地蔵信仰に曝葬様式が加味されて庶民の信仰へと習合浄化し、仏と人間が静寂神秘な大自然の構図の中に溶けあって一体となり、 極楽往生の喜びにひたる聖域といえる。

【追記】 風化対策以前(1970年頃)の阿弥陀三尊画像
船形光背の阿弥陀三尊(陽刻)と南無阿弥陀仏の名号(陰刻)


【参考文献・データ】
(1):香川県文化財協会報 特別号11 86-92 (1973)
(2):三豊市の文化財 112 (2009)