Last Update: December 15, 2017Since: December 05, 2016
名 称: | 石清水八幡宮 | 読 み: | いわしみずはちまんぐう | 祭 神: | 八幡大神 (誉田別尊・息長帯比売命・ 多岐津毘売命) | ||
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所在地: | 八幡市八幡高坊 30 | 電 話: | 075-981-3001 |
石清水八幡宮は、木津川・宇治川・桂川の合流点である山崎地峡の左岸にある男山の山頂にある。川の対岸には羽柴秀吉と明智光秀の天下分け目の 合戦が行われた天王山があり、また京都の北東(鬼門)にある比叡山延暦寺と対峙して、京都の西南(裏鬼門)に位置することから信仰上の拠点として 欠かせない地である。男山は標高142mの鬱蒼とした緑が生い茂り神気漂う霊験あらたかな山となっている。
貞観1(859)年、宇佐神宮で修行していた奈良大安寺の行教が八幡大神より「吾れ都近き男山の峰に移座して国家を鎮護せん」とのお告げを受け、 その翌年に清和天皇が男山に六宇の宝殿を造営して八幡大神をお祀りした。その後、天慶2(979)年の平将門・藤原純友の乱が八幡大神の神意によって 平定されて以来、国家鎮護の社として崇敬され、伊勢神宮に次ぐ第2の宗廟となった。また源頼信が石清水八幡宮を信仰して源氏の氏神としたため、 以後源氏の流れをくむ足利や徳川までこの地を厚く信仰した。現在の社殿は徳川家光によって造営された。
石清水八幡宮の地図・航空写真 |
南総門
嘗て行われていた走馬(競馬・出発点は三ノ鳥居一ツ石)の終点だった。門前の榧(かや)は、樹齢700年を超えるといわれる古木。山上の社殿前にある壮大な南総門から 社殿を見ると、社殿が少し西側を向いている。これは神前で参拝したのち帰る際に、八幡大神に対して真正面に背を向けないように中心を外しているといわれている。石清水八幡宮 本殿
本殿は貞観元(859)年、八幡造りの社殿が完成した。現在の社殿は寛永11(1634)年、徳川3代将軍徳川家光の修造による。前後2棟(内殿・外殿)からなる八幡造りの 社殿建築様式は稀少で、桧皮葺屋根の軒が接するところに織田信長寄進の"黄金の樋"が架けられている。 本殿から幣殿・舞殿・楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊が囲む社殿の建造物全てにが丹漆塗されており、本殿を囲む瑞籬の欄間彫刻を はじめ随所に当時の名工の極彩色彫刻が施された社殿である。国の重要文化財になっている。
《楼門》
正面の蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具があり、向かって右側の鳩は少し口を開けている。神使である鳩が社殿の正面にて狛犬と同様に 阿吽の呼吸で神前を守っている。双鳩の上には、極彩色の龍虎の欄間彫刻が施されている。南の朱雀、東の青龍、西の白虎、北の玄武の4神獣の一部。 本殿を囲む瑞籬に、極彩色の欄間彫刻が150点以上あり、これは左甚五郎一派の作といわれている。
"天女" "かまきり"など珍しい彫刻がある。
※蟇股=2つの横材の間におく束で、上方の荷重をささえるとともに装飾にもしている
《織田信長寄進の金銅製雨樋》
本殿の内殿と外殿の「相の間」に架かる織田信長寄進の「黄金の雨樋」は、天正7(1579)年12月、信長が雨に遭って山崎寶積寺に逗留の際、木製の雨樋が朽ち雨漏りがしている ことを聞いて、修理を命じた。天正8年8月にそれまでの木製から金銅製雨樋に造り替えた。理由は天災などの有事が起こった際に、この"黄金の雨樋" を換金し、 対応せよとの信長の深慮があったといわれている。
※金銅=青銅(Cu-Sn の合金)に金箔を押したもの
信長塀(築地塀)
瓦と土を幾重にも重ねた築地塀で、鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れている。織田信長が好んで採用した様式で、熱田神宮にある塀と同じ築造構造である。
熱田神宮の信長塀
織田信長が今川義元を桶狭間の合戦で
破った戦勝報賽に奉納した瓦葺の築地塀
鬼門封じ
牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅方角である鬼門(北東)を封じるために、社殿の北東の石垣避けて角を取った造りにしている。
校倉(あぜくら)
築地内北西隅に位置する校倉(あぜくら)(宝蔵)は、建築年代が不明であるが、文書や絵図などには江戸時代中期から存在している。平成21年3月に石清水社・石清水井と ともに京都府指定文化財となった。
鳳輦舎(ほうれんしゃ)
3基の鳳輦を収納している。鳳輦とは神霊の乗り物で神輿の原形。9月15日の石清水祭では八幡大神を乗せた3基の鳳輦が山上の本殿から山麓の頓宮へと降り、 儀式が終了したのち夜が明けないうちに山上へと帰還する。
石段3段の石材は、大串半島石切場の凝灰岩といわれている。
エジソン記念碑
男山の真竹からフィラメントを作り、白熱電球の長時間点灯、実用化に成功した世界の発明王エジソンとのゆかりにより、エジソン記念碑が建立された。 毎年エジソンの誕生日と命日に、日米両国の国歌奉奏と国旗掲揚を行うエジソン生誕祭・碑前祭を斎行している。エジソン記念碑に下記の英文が彫ってある。
Genius is one per cent inspiration and ninety-nine per cent perspiration.
頓宮殿
勅祭石清水祭で山上の本殿より神霊が遷される頓宮殿は重要な社殿。 幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失したので、男山48坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築し、 仮宮としていたが、現在の社殿は大正4年に造営された。昭和24年以来、62年ぶりの屋根の葺き替えをして、桧皮葺の屋根から、耐久性のある銅板葺に葺き替えた。 南門は山上の南総門であったものを昭和14年に移築した。
一ノ鳥居 扁額(へんがく)
表参道入口の石清水八幡宮の山麓の顔"一ノ鳥居"は、高さ約9m、最大幅約11mの花崗岩製。最初は木製であったが寛永13(1636)年に松花堂昭乗(1548〜1639)の発案により 石鳥居に造り替えられた。
この鳥居の紺地に金文字で"八幡宮"と書かれた額は、一条天皇(980〜1011)の勅額で、長徳年間(995〜999)に小野道風・藤原佐理とともに平安の三蹟と称えられる 藤原行成(972〜1027)が天皇の勅を奉じて筆を執ったものだったが、現在の額は寛永の三筆といわれた松花堂昭乗が元和5(1619)年、行成筆跡の通りに書写したもの。 特に"八」の字は、八幡大神の神使である鳩が一対向かい合い顔だけを外に向けた独特のデザインとなっている。
大きな灯篭
一ノ鳥居の前にある大きな石灯篭で、灯明を灯すには地上からはとても届かない。灯明を灯したり手入れをするために4段の石段を築いてある。
元文二丁己季十一月吉慶と刻銘してあるので、1737年の築造と考えられる。
石清水社・石清水井
霊泉"石清水"を核とした社で、石清水八幡宮鎮座の起源に遡る。以前は石清水の傍に石清水寺があったが、八幡宮創建と同時に石清水寺は護国寺となった。 石造りの神明鳥居の石柱刻銘には、寛永13(1636)年、当時の京都所司代・板倉重宗の寄進により建てられたとある。境内に完全な形で残る鳥居は最古のもの。 また、その銘文は松花堂昭乗の書である。
石清水は、厳冬でも凍らずに旱魃でも涸れない霊泉で、男山5水の中でも特に尊ばれ、昔から皇室や将軍家の祈祷には、この霊水を山上の本宮に献供した。 その際、神前に供される石清水は御香水といわれた。現在でも八幡宮で斎行される祭典には、当日の早朝に汲み上げた石清水を神前に献供されている。影清塚
表参道と石清水社への分岐点に位置し、祓谷という谷筋の流れが向きを変える曲水の所に当たる。その谷の向かい側には、嘗て祓谷社という社があった。 八幡宮へ参詣する人々は、この清水に己の影を写して心身を祓い清め、曲がりくねった参道を登るうちに心を整え、山上の本宮への参拝に臨んでいた。
松花堂跡
影清塚の分岐点を右に登り、石清水社へと向かう途中に江戸時代初期に松花堂昭乗(1584〜1639)が営んだ"松花堂"の建っていた跡地がある。 松花堂昭乗は瀧本坊の住職であったが、寛永11(1634)年に弟子に坊を譲り、泉坊に移って隠棲し、寛永14(1637)年に泉坊の一角に方丈の草庵を結び"松花堂"と称した ことから松花堂昭乗と呼ばれるようになった。 松花堂と泉坊の客殿は、明治初年の神仏分離令の後もしばらく男山に残っていたが、明治7(1874)年頃に京都府知事より「山内の坊舎は早々に撤却せよ」との厳命が下ったため、 当時の住職が山麓の大谷治麿に売却したので、草庵は破却されずに残った。 その後、幾度かの移築を経て、現在の松花堂庭園は昭和52(1977)年に八幡市の所有となり管理運営されるようになった。 昭和32年に「松花堂およびその跡」は国の史跡指定をうけたが、平成24年1月には、その地を含む境内全域が国の史跡に指定された。五輪塔
日本最大級の五輪塔で国の重要文化財(高さ6m、下部の方形の一辺2.4m)になっている。宋と貿易をしていた尼崎の商人が石清水八幡宮に祈り海難をのがれたことから、 その御礼と感謝のために建立したと言い伝えられ、航海記念塔とも言われている。
また、忌明塔ともいわれ、亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたという。他にも鎌倉時代の武士の霊を慰めるための武者塚とか、行教律師の墓などの伝説が残っている。 五輪塔は密教思想に基づき、古代インドの宇宙の五大要素を取り入れて形象化し "空(宝珠)・風(半月)・火(三角)・水(丸)・地(四角)" を五輪にして、全ての徳を 具備するという意味を持つとされている。
◎国宝 建造物 ・石清水八幡宮本社 10棟 本殿(内殿及び外殿) 摂社武内社本殿 瑞籬(門2所及び閼伽棚付属) 幣殿及び舞殿 楼門 東門 西門 廻廊 3棟(楼門東門間、楼門西門間、背面) ◎重要文化財 建造物 ・石清水八幡宮 8棟 摂社若宮社本殿 摂社若宮殿社本殿 摂社水若宮社本殿 摂社住吉社本殿 東総門 西総門 北総門 摂社狩尾社本殿 - 本社西方の飛地境内に建つ。 ・石清水八幡宮五輪塔 1基 ◎史跡 ・石清水八幡宮境内 ・松花堂及びその跡
□八幡大神□
神功皇后 息長帯比売命
応神天皇 誉田別尊
多紀理毘売命
比淘蜷_ 市寸島姫命
多岐津毘売命
三女神社(山上) | 北総門(山上) | 灯篭群(南総門前・山上) |
高良神社(山麓) | 一ッ石(山上) | 鳳輦 |
《凝灰岩製の石材》 石清水八幡宮の古文書『建武回録記』に次のような記載がある。
"暦応2(1339)年この八幡宮の宝殿、弊殿、拝殿の再建にあたり、石種30種余、箇数5000箇余りの切石が使用されたが、これは前例にならって、検校職をつとめる田中殿の 所領地讃岐の国から送り込まれた…"
田中家文書によると、平安末期から南北朝、室町時代にかけて中讃岐草木の庄、牟礼の庄一帯が石清水八幡宮の荘園であったとされており、この再建用の石材が大串半島石切場 から積み出されていた可能性がある。
石清水八幡宮で石材を使用している場所を探してみると、下宮から上宮への階段石が考えられる。表参道・松花堂跡・鳳輦舎の石段が大串石切場跡の凝灰岩によく似ている。 表参道の石段には凝灰岩と花崗岩が入り混じっている。これは凝灰岩の摩耗や損傷で、後の修復工事で凝灰岩の補強や見栄えを良くするため花崗岩を点在配置したと考えられる。
【参考文献】
- 日本歴史地名大系・石清水八幡宮 平凡社
- 太政類典 国立公文書館
- 石清水八幡宮HP (http://www.iwashimizu.or.jp/about/)