イントラムロスの歴史的背景


Last Update: Mar 06, 2011

1 はじめに

大多数の日本人にとってマニラは発展途上国フィリピンの政治都市、歓楽都市、商業都市であり太平洋戦争の激戦地のイメージが浮かんでくるが、 実は400年の歴史をもち、その間333年のスペイン植民地時代を経てスペインの文化的影響を強く受けてフィリピン独特の文化を醸成していった。
その中心はマニラのイントラムロスである。現在のイントラムロスはメトロ・マニラ中心部にある一区画となっているが、スペイン植民地時代のマニラとはイントラムロスそのものを指していた。 イントラムロスの文化財を歴史的背景から検証しながら、最近の観光地としての価値も紹介したい。


2 イントラムロス

イントラムロス(INTRAMUROS)、城内を意味するスペイン語でスペイン植民地時代には、まさに植民地統治の中心を占めた城塞都市であり、マニラ(旧マニラ)そのものであった。
成り立ちは 1571年6月2日スペイン人レガスピ(Miguel Lopez de Legaspi)がマニラをほとんど無血で占領したことに始まる。彼はこの地をフィリピン植民地経営の中枢にするため、城塞都市(イントラムロス)の建設に着手した。 当時のスペイン人が新世界において用いた手法(1573年全植民地を対象とした標準都市計画勅令)に基づき、街路は直線的に引き直角に交差して、土地区画は碁盤の目のように区切った。
マニラの中央広場前に大聖堂を、 その南側に市庁と向かい側には政庁を配置した。また、区域をサン・アントニオ地区、サン・カルロス地区、サン・ルイス地区、サン・ガブリエル地区の4つに分けていた。

サンチャゴ要塞の大砲と砲弾
現在のイントラムロス17世紀のイントラムロス

この城塞都市を守る外壁は、初期には簡単な木や竹と土手で出来ていた。また住宅は主に木材と籐、ニッパ椰子の葉で屋根を葺いていたので、その後の火事や地震、中国人海賊の襲撃などで都市そのものが破壊され、瓦礫の山と化した。
この教訓をもとに外(城)壁をより強固にし、都市内部の建物や道路は石造構造へと変換した。アドービ石(火成凝灰岩)や貝殻から石灰を取って、ブロックや屋根瓦に使用して耐火構造とした。城塞都市の内部には総督邸、教会、修道院、 学校、病院などが次々と建造され、道路には御影石が敷かれ、排水施設も整備されていった。
これによりこの都市(イントラムロス)の景観は、大規模な政庁、荘厳な教会、豪華な住宅が立ち並ぶヨーロッパ風な都市が東南アジアに出現した。

17世紀のイントラムロス中央広場付近 17世紀のマニラ湾

しかし、防御に意外な脆さを露呈して、中国人海賊の襲撃、特に衝撃的な出来事は 1762年イギリスに防御の弱点を衝かれて、この地を占領された。
1763年のパリ条約で外交的に取戻したのを機にスペインは城塞門や城壁の防御を強化した。マニラ湾に向かって新たに二ヶ所の角面堡(多角形の堡塁、多方面の敵に十字砲火を浴びせることができる)を増設した。 その結果、東洋一の強固で優雅な城塞都市イントラムロスが完成した。

19世紀、イントラムロスの大砲 17世紀のサンチャゴ要塞周辺の図
18世紀、角面堡を増設して防御をかためた

現存するイントラムロス遺跡は、周辺4.5Km、面積64haで、完成した当時のままの大きさである。
太平洋戦争で日本軍が立て篭もったイントラムロスへ米軍は集中砲撃を加えたため、城塞都市の建造物はことごとく破壊された。現在のイントラムロス遺跡で目を引く建造物は、サンティアゴ要塞、マニラ大聖堂、サンアグスチン教会である。


@サンティアゴ要塞(Fort Santiago)

スペインが領有した当時は木造の砦であったが、イエズス会修道士アントニオ・セデーニョの設計により石造りに改修された。 この要塞には兵舎、水牢があり、サンタバーバラ砲台、サンロレンソン堡塁、サンミゲール堡塁、サンフランシスコ中央堡塁、海水を入れた堀により防御されていた。
建設には多数のフィリピン人や中国人が石切り、レンガの製造、木材の切出し運搬に強制労働させられた。その後の防御工事により要塞は堅固になり、イントラムロスそのものも完璧な城塞都市になった。

現在のサンチャゴ要塞

Aマニラ大聖堂(Manila Cathedral)

1571年に創建されたが、その後の地震、台風、火災、侵略による破壊、再建を繰返した。太平洋戦争では米軍により瓦礫の山となった。 現在の建物は 1958年に建造されたもので歴史的な価値は低い。

Bサンアグスチン教会(San Agustin Church)

正面から見てサンアグスチン教会の右側にある。ここには17世紀頃のカソリック教会の金、銀、象牙の装飾品や祭壇が陳列されている。また、家具、工芸品など数多く保管されている。

Cサンアグスチン博物館(San Agustin Museum)

正面から見てサンアグスチン教会の右側にある。ここには17世紀頃のカソリック教会の金、銀、象牙の装飾品や祭壇が陳列されている。また、家具、工芸品など数多く保管されている。


Dその他

イントラムロスは視点を変えれば、教会の集合都市である。創設期には九つの教会が築造されていたが、度重なる地震、火災、略奪や太平洋戦争時の米軍の砲撃で八つの教会が破壊された。
主な教会は、セントドミンゴ教会、サンフランシスコ教会、サンイグナシオ教会、サンニコラス教会など。

修復なった石畳街路と大聖堂

3 まとめ

イントラムロスは、フィリピンの文化や文化財を考えるうえで重要な意味を持っている。
300年余のスペイン植民地時代に、スペイン文化は深く浸透して、フィリピン固有の文化と融合し独特の文化や文化財を生み出した。 1945年の太平洋戦争で徹底的な破壊を受け、16世紀のヨーロッパを彷彿させるバロック様式の建物が建ちならんだ優雅な街並みは壊滅した。
その後30年以上放置されていたが、1979年にイントラムロス復興委員会、国立歴史協会などの音頭で復興要請がだされた。 その結果、大統領令によりイントラムロス行政局が設立され、本格的な復興への歩みをはじめた。現在、サンティアゴ要塞門など7箇所の城塞門、10箇所の堡塁が修復された。
今後も急ピッチで修復工事が進み、かっての優雅で荘厳な都市が再現されることを切に希望する。



 【参考文献・資料】
・Ayala博物館資料
・永積昭;「民族の世界史6」山川出版, 1984
・「フィリピンを知る事典」弘文堂
・Ramon Maria Zaragoza ; ”Old Manila” Oxford University Press, 1990