Last Update: December 21, 2016



引田城は、引田港を臨む標高90mの山上に築かれている。起源は天智6(667)年、屋嶋城築城のとき、安倍比羅夫が築城したとか、また屋嶋城との連絡の ための狼煙台を造ったのが城の始まりになったともいわれている。築城のきっかけは、663年に白村江はくすきのえで唐・新羅の 連合軍に大敗した大和朝廷は、慌てふためいて西日本各地に防衛戦線として築いた海城の一つと考えられている。
2016年2月、さぬき市文化財保護協会は、"文化財巡りL" で引田城跡を見学研修した。好天に恵まれ引田港を眼下にしながら、7世紀ごろから築城が始まった 山城を身近に触れることができ、私たちは大変有意義な時間をもてた。

引田城山の航空写真・地図


登山口 ⇒ 六角堂石垣 ⇒ 南の郭 ⇒ 展望所 ⇒ 化粧池 ⇒ 引田灯台 ⇒

東の郭 ⇒ 北の郭2段構築石垣 ⇒ 丹後丸 ⇒ 山道の降り ⇒ 県道


(Marked by Garmin GPS)


@登り口に集合A案内図を確認するB登り口標識C本丸石積の説明を聞く
D引田城本丸跡E化粧池F引田灯台G東の郭
H北の郭I丹後丸J西下山口K美人案内ガール(井筒屋敷)

西の郭・天守台・南の郭
西櫓跡といわれており、方形の石垣が残っている。石垣の上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正12(1923)年久邇宮良子の行啓予定地になるとの 情報で、展望台への道路整備等が行われ、貴重な史跡の一部が変更された。
この場所から南東方向に本丸跡、さらにその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた個所も多い。この付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用と して破壊された。 その堤防は眼下南方に現存している。本丸等の建造物は、採取した瓦片等から生駒時代の構築と考えられている。

南の郭
城郭の南側を防御する場所で、播磨灘の東方向や陸路の阿波方面への監視が目的の物見台的要素の強い郭と考えられる。この地に石碑が建っていた。

化粧池
南の郭から山道を降った薄暗い谷間の湿地帯に化粧池がある。引田城の姫や女中たちがこの池の水を使って化粧していたと伝えられている人口の溜池で、古い石垣囲いがある。 実際は生活上の必要な真水の確保が目的の水源地であった。

東の郭
西の郭、南の郭、北の郭とは少し離れた場所に空堀で区切られて独立しており、軍事的な施設であり武器庫ではないかと考えられている。

北の郭
和泉砂岩・礫岩を使った石垣の構造は、天正時代の築城様式の特徴を表わしている。2段に築かれた上段の石垣は、南へ伸び城門跡から西の郭に続いており、 一部石垣の崩れたところでは、裏ぐりに海の石を利用したと思われる "ぐり石" の露出がある。 北側は自然の岩稜帯まで石垣を築き、その岩稜帯と石垣の上に近世の建物が建てられていたことの証である丸瓦が出土している。
丸瓦                                          (※ぐり石=10〜15cmの丸石)