北京周辺2


Last Update: Apr. 08, 2012


頤和園

 1884〜1895に西太后の隠居後の居所とするため光緒帝の名により再建されることになったが、 経費の問題で修復は前山建築群に限定された。
 当時、清朝は日本と軍事的緊張が高まっており軍備増強を必要とするときであり、頤和園の再建は大きな財政負担であったが、 北洋艦隊を整備する海軍予算を再建費に流用した。このことが日清戦争敗北の原因の一つとなったと言われている。
 再建された頤和園は離宮として西太后の避暑地に利用された。 1900年、義和団の乱を鎮圧すべく出兵した8ヶ国連合軍により破壊されたが、1902年に修復された。

万寿山 昆明湖の畔
万寿山万寿山をバックに
壁 長廊
水槽が嵌め込んであるような壁長廊

 長廊は全長728mの回廊で、両側に約7800点の「中国四大名著」(『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『紅楼夢』)の 画が描かれている。



八達嶺長城

 現在の長城遺構は明代に建設されたもの。北京郊外にあるが、北京市内から八達嶺高速道路を通れば約1時間で到着する。 この長城は首都防衛を目的とし、また王朝の威厳を示す目的もあり特に堅牢な建築物となっている。
 北京近郊の長城に特有の様式である煉瓦で構築され、所々に望楼がある。観光客に一般公開されている場所は、殆どの場所で 近年大規模な修復が実施されている(1980年には、いたるところ壊れており、煉瓦がごろごろしていた)。
 入場料を払って入口を過ぎると、左右(南側と北側)に分かれており、勾配は南側は急で、北側は比較的緩やか。 最高地点の「北八楼」で海抜1015m。北側は途中に遊園施設が作られており、ここから山道を降ることもできる。

八達嶺長城 八達嶺長城
八達嶺長城八達嶺長城
長城にて 狼煙台
長城にて混雑する狼煙台付近
望楼 長城
望楼の窓から見える長城龍のような長城


天壇


 天壇は北京市崇文区にある史跡で、明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所(祭壇)。 敷地面積は約2,730,000 m2の広さがある。1998年にユネスコの世界遺産に登録された。
1420年、明の永楽帝が建立したとされる。建設当時は天地壇と呼ばれていたが、1534年、天壇と地壇に分離、天壇と呼ばれるように なった。現在は、北京市内に日壇、月壇、天壇、地壇が東西南北にある。
祈年殿は、天壇でもっとも有名な建造物で、嘗て皇帝が正月の上辛五穀豊穣の祈りを天に捧げた。祈年殿は直径32m、高さ38m、 25本の柱に支えられる祭壇で、現存する中国最大の祭壇。
木造建築で宝頂は金メッキがされている。屋根は瑠璃瓦葺きの3層になっており、明の時代には上から青、黄、緑となっていたが 1751年にすべて青色に変えられた。1889年には落雷により消失したが、1906年に再建された。

剣舞太極拳 天壇の長廊
朝の天壇公園で剣舞長廊で将棋に熱中?
祈年殿 皇乾殿
天壇祈年殿の前で皇乾殿の前で


紫禁城


 紫禁城は明・清王朝の宮殿建築で、北京市の中心にある。前方に天安門、後方に景山、東に王府井商店街、 西に中南海の皇室庭園がある。1987年にユネスコ世界遺産に登録された。
 中国古代の星象学では、紫微宮(北極星)は天の中心であり、天帝の居住するところといわれている。天人対応の思想によれば、 人間の皇帝が居住する皇宮は天上の紫微宮に相当するので、皇帝の皇宮を紫禁城と称した。
 明の第3代皇帝である朱棣(永楽帝)は帝位についてから、南京から北京に遷都して、紫禁城を建て始め、1420年に完成した。 1911年の辛亥革命によって清王朝が倒れ、退位した溥儀は1924年に紫禁城を追われた。この間約500年、中国の政治軍事の中枢を 担っていた。
 紫禁城は南北961m、東西753m、敷地は720,000u。高さ1Omの城壁に囲まれ、幅52mの濠が廻っている。城郭は南北に通る中軸線に 沿って宮殿建築が配置され、左右対称につくられている。建物は赤い壁に黄釉の瓦を葺いており、柱や梁の表面は文様や彫刻で埋め られ煌びやかで、数多くの宮殿や楼閣からなる建築群を構成している。

天安門 保和殿
天安門紫禁城保和殿のまえにて
大和殿広場 御花園
紫禁城大和殿前御花園
天安門前広場 天安門前広場
天安門前広場にて天安門前広場にて